葛蛇玉(1735-1780)は、はじめ橘守国と鶴亭に師事し、その後宋元の古画を研究した。鯉を好んで描き、鯉翁と呼ばれたという。残っている作品は少なく、山水図は掲載の「山高水長図」のみである。風流閑雅な人物で、常に数種の小鳥を飼い眺めては楽しんでいたという。木村蒹葭堂とも交流があったことが『蒹葭堂日記』から知られる。
ほかに長崎派に連なる大坂の画人としては、佚山、泉必東、讃岐の出身で大坂に出て長崎派を学んだ小倉(亀井)東溪をはじめ、大坂における鶴亭画風の直接の後継者とされる鵲橋鶴林(不明-不明)、蛇玉の長男・葛蛇含(不明-不明)らがいる。
葛蛇玉(1735-1780)かつ・じゃぎょく
享保20年生まれ。大坂の人。名は徹、のちに季原。字は子明。号は蛇玉、蛇玉山人、洞郭、鯉翁。木村宗訓が江戸初期に建立した親鸞宗の玉泉寺で生まれ、四代目の宗琳の二男として長嶋氏を継ぎ、小早川景次に連なる家系であったため、小早川若谷八と呼ばれた。煩わしい名前を嫌って葛氏と名乗った。蛇玉の号は明治3年以後で、蛇が玉を口に含んで現れる夢を見たことによると伝わっている。はじめ橘守国と鶴亭に師事して画を学び、その後に宋元の古画を研究した。鯉を描くのが得意で鯉翁と呼ばれた。遺存する絵画は少なく、「与古為徒」という遊印を用いた。木村蒹葭堂とも交流があった。安永9年、46歳で死去した。
鵲橋鶴林(不明-不明)
名は正秀。号は鶴林、清斎。大坂に住み鶴亭に画を学んだ。鶴亭との関係からか木村蒹葭堂とも交流があり、安永から天明にかけて『蒹葭堂日記』に登場し、寛政2年刊の『郷友・寛二』に、北堀江5丁目に住む画家としてその名を見るのを最後に、史料上から消息を絶っている。大坂における鶴亭画風の直接の後継者として注目される。
葛蛇含(不明-不明)
葛蛇玉の息。片山北海が撰し、蛇含が建てた蛇玉の墓碑銘によると、蛇玉の設けた三男二女の長男にあたる。父同様、画を好んで家名を墜とさなかったという。安永9年には父に伴われて木村蒹葭堂を訪ねている。
大阪(21)-画人伝・INDEX
文献:近世大阪画壇、浪華人物誌2、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、大坂画壇の絵画