江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

琉球王国解体後も長く活動した長嶺宗恭(孟有文)

長嶺宗恭(孟有文)「芭蕉図」

1875(明治8)年に王府最後の絵師登用試験があり、安仁屋政伊(東承徳)と長嶺宗恭(孟有文)は、これに合格して王府の絵師となったが、4年後の廃琉置県によって琉球藩が廃止されて沖縄県になったため、失職した。

安仁屋政伊(東承徳)は、幼いころから小波蔵安章(毛文達)に絵を学び、王府の絵師になることを望んでいたが、父を亡くして貧しかったため、叔父の津波古親方からは王府の取納座(税務署)に勤務するように勧められていた。しかし、これを性にあわないといって断り、位牌の制作や床の間の絵を描いて生活していた。

貧しい生活のなか、1875(明治8)年の絵師登用試験に合格し、ついに王府の絵師となったが、4年後の廃琉置県によって失職、生活はますます苦しくなったという。1901(明治34)年には琉球最後の国王だった尚泰侯が死去し、その葬儀に長嶺宗恭(孟有文)とともに絵図の制作を命じられたが、翌年病気のため没した。すぐれた画才を持っていたと伝わっているが、その才能は十分に発揮されることはなく、作品も確認されていない。

首里に生まれた長嶺宗恭(孟有文)は、幼いころから画を好み、小波蔵安章(毛文達)に学び、芭蕉の絵を得意とした。安仁屋政伊同様、廃琉置県後は失職したが、その後も画業を続け、大正時代にはジャーナリストの末吉安恭に資料を提供し、王国時代の絵画史の研究にも協力するなど、昭和初期まで活動した。

安仁屋政伊(1834-1902)
1834(天保5)年首里桃原村生まれ。唐名は東承徳。ぜう林と号した。安仁屋里之子親雲上政行の四男。小波蔵安章(毛文達)に師事し、1875年に王府の絵師の登用されたが、その4年後に琉球王国が崩壊し、失職した。1901年の旧国王・尚安の薨去に際しては、長嶺宗恭とともに絵図方をつとめた。作品は確認されていない。孫に安仁屋政栄がいる。1902年、68歳で死去した。

長嶺宗恭(1852-1932)
1852(嘉永5)年首里生まれ。唐名は孟有文。雅号は華国。首里儀保村に住み、幼いころから画を好み、1873年に小波蔵安章(毛文達)に師事し、1875年に王府の絵師の登用されたが、その4年後に琉球王国が崩壊し、失職した。その後、青年時代の画技が宜湾親方朝保の目にとまり抜擢され、宜湾家に出入りした。芭蕉の絵を得意とした。1932年、80歳で死去した。

沖縄(14)-画人伝・INDEX

文献:沖縄美術全集4、琉球絵画展、すぐわかる沖縄の美術