江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

丸木位里・俊が描いた「沖縄戦の図」

丸木位里・俊共同制作「沖縄戦の図」(部分)佐喜眞美術館常設展示

1974(昭和49)年、沖縄県は世界の恒久平和と全沖縄戦没者の霊を慰めることを目的に、6月23日を「慰霊の日」と制定した。ただ、この日は沖縄戦が終結した日ではなく、南西諸島防衛のために陸軍に創設された第32軍の司令官が自決し、日本軍の組織的戦闘が終了した日である。それ以降も沖縄は戦場であり続け、終戦を迎えた8月15日以後も多くの犠牲者を出している。沖縄戦は、米軍が沖縄戦終了を宣言した7月2日で一応の終焉となり、降伏調印式を行なった9月7日に公式に終結した。

「原爆の図」で知られる丸木位里・俊夫妻は、1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が投下された際、位里はその3日後に故郷・広島に帰り、続いて俊も広島に入り、救援活動に加わっている。「原爆の図」第1部が発表されたのはその5年後で、その後も「原爆の図」を描き続け、1982年に第15部「長崎」を完成させるまで、32年もの間「原爆の図」を描いた。その間、1975年に「南京大虐殺の図」、1977年に「アウシュビッツの図」、1980年に「水俣の図」を制作している。

「沖縄戦の図」に取り掛かったのは、「原爆の図」第15部が完成した年で、それから位里と俊の二人は沖縄戦に関する本を160冊以上読み、学者や研究者に取材し、生存者たちとそれぞれの現場に足を運んで体験談を聞き、1985年、ついに縦4メートル、横8.5メートルの大作「沖縄戦の図」を描きあげた。完成した「沖縄戦の図」を見た戦争体験者の一人は、その綿密な取材に基づいた細かい描写に「こんなことまで知っているはずがない。ほんとうにヤマトンチュが描いたのか」と驚いたという。

丸木位里は「沖縄戦の図」に関して、「原爆の図を描き、南京大虐殺を描き、アウシュヴィッツを描きましたが、沖縄を描くことがいちばん戦争を描いたことになります」と語っている。

丸木位里(1901-1955)
1901(明治34)年広島市生まれ。1922年に上京して同郷の日本画家・田中頼璋に師事した。1939年美術文化協会結成に唯一の日本画家として参加。1941年俊が美術文化協会に加入し、同年位里と俊は結婚した。1945年8月6日広島に原爆が投下され、その3日後に位里、つづいて俊が広島に入り、一ヶ月間救援にあたった。1947年神奈川県片瀬に移り住み「原爆の図」のデッサンを始めた。1953年「原爆の図」で世界平和文化賞を受賞。1955年「原爆の図」第10部までが完成、翌年国内、中国、朝鮮、モンゴル、ヨーロッパ各国など、世界十数カ国で巡回展を開催した。1966年埼玉県東松山市に移住し美術館建設にとりかかり、翌年原爆の図丸木美術館を開館。1975年「南京大虐殺の図」を制作、1977年「アウシュビッツの図」を制作。1978年沖縄タイムス社主催「原爆の図展」開催。1980年「水俣の図」を制作。1982年「原爆の図」第15部「長崎」が完成し、同年沖縄に取材・制作のため一ヶ月半滞在。1983年「沖縄の図」8部連作完成。「沖縄戦の図」制作のため二ヶ月間沖縄に滞在し、多数のスケッチを描いた。1985年「沖縄戦の図」が完成。翌年「沖縄戦 きゃん岬」「沖縄戦 ガマ」が完成。12月より翌年2月初旬まで沖縄・読谷村に滞在して取材・制作し、1987年「沖縄戦 読谷3部作」の「チビチリガマ」「シムクガマ」「残波大獅子」完成した。1995年、94歳で死去した。

丸木俊(1912-2000)
1912年北海道生まれ。旧姓は赤松。1939年に上京して女子美術専門学校に入学、4年間洋画を学んだ。1941年美術文化協会に加入、同年丸木位里と結婚した。以後位里と多くの共同制作を行なった。1984年絵本「おきなわ島のこえ」が講談社絵本賞を受賞。2000年、87歳で死去した。

沖縄(11)-画人伝・INDEX

文献:沖縄戦の図(佐喜眞美術館)、琉球・沖縄史