小野竹喬(1889-1979)、池田遙邨(1895-1988)に代表される岡山の京都派だが、ほかにも石井金陵に南画を学び、のちに京都に出て山元春挙に師事した高橋秋華(1878-1952)や歴史画を得意とした森安石象(1879-1952)、今尾景年に学び、岡山に京都の新日本画を伝えた喜多村松斎(1867-1934)らがいる。岡山の青年画家たちは、新生日本画に未来を求めて京都を目指し、京都市立絵画専門学校などで京都派の画家に学んだのち、文展、帝展、国画創作協会展などを舞台に活躍した。
高橋秋華(1878-1952)
明治11年邑久郡幸島村生まれ。名は敏太。別号に聴鶯居がある。石井金陵に南画を学び、のちに京都に出て山元春挙に師事した。昭和5年に完成した東京の明治神宮絵画館に「御降誕御産殿図」が残っている。昭和27年、79歳で死去した。
森安石象(1879-1952)
明治12年都窪郡庭瀬町生まれ。名は石蔵。谷口香☆(☆は山+喬)に師事した。歴史画を得意とした。昭和3年に岡山に帰り、門田の三友寺境内に画房を設けた。倉敷市の瀬戸寺に「盛綱先陣図」が残っている。昭和27年、73歳で死去した。
喜多村松斎(1867-1934)
慶応3年広島県福山生まれ。今尾景年につき円山派を学び、岡山に帰り山陽高等女学校の教師をしたほか、自宅でも広く教え、京都の新日本画の傾向を岡山に伝えた。昭和9年、68歳で死去した。
井上蘆仙(1873-1941)
明治6年後月郡井原村新町生まれ。名は専次郎。川上左平の長男、叔父・井上藤七郎の養子となる。大阪の小野晴雲、中川蘆月に学び、さらに京都に出て菊池芳文の門に入った。のちに大阪に戻り、相愛女学校で絵画教師をつとめた。大正13年、招かれて井原興譲館の図画教師となり、かたわら画業に励んだ。昭和16年、69歳で死去した。
丸浜大檣(1876-1960)
明治9年川上郡成羽町生まれ。名は善次郎。別号に光浦、高澄がある。京都に出て菊池芳文に師事、その後菊池契月の門に入った。帝展に出品した。昭和35年、85歳で死去した。
石橋謙吾(1897-1932)
明治30年浅口郡黒崎村生まれ。別号に訪溪、春更、思更がある。大正7年浅口郡徳本尋常高等小学校の教諭となるが、退職して京都に出て小野竹喬の門に入った。国展に出品するが、国画創作協会解散後は、新樹社の設立に参加した。その後、洋画家を目指す弟の博惠とともに東京に出るが、昭和7年、川崎市において、36歳で死去した。
小林華徑(1897-1980)
明治30年小田郡笠岡町生まれ。名は増治。京都市立絵画専門学校卒業。土田麦僊、西村五雲に師事し、福田平八郎の指導も受けた。京都在住の岡山県出身画家の団体「烏城会」の会員になる。帝展に出品したが、昭和19年に帰郷して笠岡の住吉に住んだ。戦後は岡山県美展審査員などをして地元で活動、昭和30年には笠岡美術協会の設立に参加した。昭和55年、84歳で死去した。
村上志郎(1900-1949)
明治33年小田郡笠岡町生まれ。笠岡商業学校を卒業後、大阪の住友銀行に就職。翌年、画家を志し銀行を辞め帰郷。しばらく小野竹喬の指導を受けた。その後、土田麦僊に師事して国画創作協会展に出品、同展解散後は新樹社の設立に参加し、新樹社解散後は笠岡で活動した。昭和24年、50歳で死去した。
木村丈夫(1900-1976)
明治33年都窪郡早島町生まれ。京都市立絵画専門学校研究科修了。菊池契月、川北霞峰に師事した。帝展、新文展に入選を重ね、烏城会の設立に参加した。昭和51年、77歳で死去した。
三木彩光(1900-1936)
明治33年吉備郡総社町生まれ。京都市立絵画専門学校卒業。菊池契月に師事した。昭和11年、37歳で死去した。
岡山(24)-画人伝・INDEX