江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

浪華の美人画家・上島鳳山

上島鳳山「緑陰美人遊興之図」

小田郡笠岡村の辻家に生まれ、大阪の上島家を継いだ上島鳳山(1876-1920)は、円山派の西山完瑛らに師事し、動物画や美人画を得意とした。酒を愛する豪放磊落な性格で、身近にいた北野恒富(1880-1947)によると、かなりのアルコール依存症だったらしく、酒が切れると冷酒をあおって描いたという。能や狂言についての造詣も深かった。繊細で官能的な鳳山の美人画は、関西では竹内栖鳳に迫る人気を得ていたが、45歳で死去したため今は知る人は少ない。

参考:UAG美人画研究室(上島鳳山)

上島鳳山(1875-1920)
明治8年小田郡笠岡村生まれ。本は寿治郎。辻喜平の二男。祖父は辻鳳山。実家は刀鍛冶、のちに理化学器械の製造を家業としていた。画房を鳳鳴画屋と称した。はじめ大阪の円山派の画家・木村貫山に学び、ついで西山完瑛、渡辺祥益に師事した。明治33年に大阪の上島多次郎の長女くに子と結婚して上島姓を継いだ。結婚までは祖父と同姓同名の「辻鳳山」を名乗っていた。明治42年、第3回文展に「緑陰美人遊興之図」を出品するが落選、以後文展に出品した記録はない。大正元年に大阪の青年画家による絵画運動「大正美術会」の設立に北野恒富らと参加、大正4年の第1回大阪美術展覧会では審査員をつとめたが、第4回展では恒富とともに辞退した。大正9年、45歳で死去した。

辻鳳山(1794-1850)
寛政6年生まれ。名は喜平。古手屋・辻徳十郎の子。上島鳳山の祖父。はじめ黒田綾山に学び、のちに円山派の渡辺南岳に師事した。敬業館教授の小寺清先、関鳧翁ら文人と交流し、清先の長男・清之の著書『備中名勝考』の挿絵や、笠岡笠神社の衝立の絵などを描いた。嘉永3年、57歳で死去した。子の辻喜平(2代目)は画家ではなく、理化学研究家だった。二代目の二男の寿治郎が上島鳳山である。

鳳陽(不明-不明)
上島鳳山の弟子。鳳山には実子として2人の男子がいたが、いずれも早世した。鳳陽は昭和4年の時点で、鳳山と同様に井口古今堂と関係があったことがわかっている。

岡山(23)画人伝・INDEX

文献:上島鳳山と大阪の画家たち、笠岡画人伝・俳諧史