江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

岡山の近代南画家、石井金陵・衣笠豪谷・波多野華涯

石井金陵「蝶飛」

上道郡金岡村(岡山市西天寺)に生まれた石井金陵(1842-1926)は、古市金峨や岡本秋暉に学んだのち、岡山市岩田町に画塾を開き多くの門下生を教え、その後、大阪に移り、関西南画壇の長老として活躍した。窪屋郡倉敷村(倉敷市)出身の衣笠豪谷(1850-1897)は、明治政府の勧農局に勤務して養鶏法の普及などに功績を挙げ、そのかたわら南画をよくした。また、大阪に生まれ、東京の跡見学校を卒業後岡山市内に定住した閨秀画家・波多野華涯(1863-1944)は、岡山の南画普及につとめ、多くの女性門下生を育てた。

石井金陵(1842-1926)
天保13年上道郡金岡村生まれ。名は俊、字は君明。はじめ古市金峨に画を学び、ついで市川東壑、岡本秋暉に師事した。のちに全国を遊歴して画技をみがいた。岡山市岩田町に画房を設けて多くの門下生を教えていたが、明治36年に大阪に戻り、天王寺北山町・小宮町に画房「桃谷山荘」を構えた。姫島竹外、森琴石とともに大阪南画壇の三長老と呼ばれた。晩年は神戸市須磨の「鉄拐山房」に住んだ。昭和3年、85歳で死去した。

衣笠豪谷(1850-1898)
嘉永3年窪屋郡倉敷村生まれ。名は済、字は紳卿、通称は延太郎。別号に天柱山人がある。備中の景勝地・豪渓にちなんで豪谷と号した。少年のころ、倉敷に来ていた勤王画家の石川晃山について詩と南画を学び、ついで興譲館に入って阪谷朗廬に師事し、その後江戸に出て、書を市川萬庵に、詩を大沼枕山に、画を佐竹永海と松山延洲に学び、さらに京都に中西耕石を訪ねて画の研究をかさねた。明治6年に絵画研究のため清国に渡ったが、養鶏法に興味を持ちその勉強に熱中、帰国後は勧農局で新しい孵卵法の普及につとめた。明治30年、48歳で死去した。

波多野華涯(1863-1944)
文久3年大阪生まれ。名は元。明治8年に跡見花蹊が東京・神田猿楽町に開校した跡見学校(のちの跡見学園)の第一期生となった。在学中に画家でもあった跡見花蹊に師事して花崖の号を受け、ついで滝和亭について南画を修めた。詩を河野春帆に、文を藤沢南涯に学んだ。大正5年ころから岡山の内山下桜馬場に住み、「有香社」を主宰して南画の普及につとめ、多くの女性門下生を育てた。昭和19年、82歳で死去した。

岡山(18)画人伝・INDEX

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の近代日本画 2000