岡山の地からは、二人の円山派の大家が出ている。当時、四条派内で「人物は義董、山水は豊彦」と謳われ、京都の人気を集めた柴田義董(1780-1819)と岡本豊彦(1773-1845)である。義董は邑久郡尻海の富豪の家に生まれ、少年の頃から京都に出て呉春の門に入り、若くして画技を究め、洗練された筆致で幅広い画題をこなし、人物画を最も得意とした。卓抜した技巧を誇り、将来を嘱望されたが、40歳で早世した。豊彦は窪屋郡水江村(倉敷市)の裕福な旧家に生まれ、10代半ばで南画家・黒田綾山に学び、20代半ばで京都に出て呉春の門に入ったと思われる。天才型とされる年下の先輩・義董と異なり、豊彦はひたすら努力を重ね、やがて呉春の門弟筆頭の位置にまでのぼり、山水の名手として知られるようになった。呉春の没後は、京都錦小路新道に画塾「澄神社」を開き、多くの門人を育成した。近代日本画の発展に寄与した塩川文麟、柴田是真らが門下から出ており、豊彦の画系が、のちの京都画壇の主流を占めることになる。
柴田義董(1780-1819)
安永9年邑久郡尻海生まれ。名は義董、字は威仲、通称は喜太郎、または喜多楼とも記した。別号に琴渚、琴江などがある。少年の頃から京都に出て四条派の呉春に画法を学んだ。若くして画技を究め、人物、花鳥、走獣と幅広い画域を誇ったが、最も得意としたのは人物画だった。京都の人々も「花鳥は景文、山水は豊彦、人物は義董」と評していた。『古画備考』によると「記憶力抜群で、粉本などは使わず、古画を模写したものなどは貯めない」とその天賦の才について記している。洗練された筆致で幅広い画題をこなし、天才的な技巧を誇った義董だったが、文政2年、40歳で早世した。
岡本豊彦(1773-1845)
安永2年窪屋郡水江村生まれ。名は豊彦、字は子彦、別号に鯉喬、丹岳、澄神斎などがある。10代半ばで南画家・黒田綾山に画を学び、25、6歳の頃、父の死を契機に京都にでて呉春の門に入ったと思われる。南画家としての素地の上に、四条派への転向のために懸命の努力をしたと思われ、『古画備考』によると、呉春の作品をすべて模写し画業の参考にしたという。また、注文主の好みを把握して作品を仕上げるという態度も京都で人気を博す要因となり、四条派門弟筆頭の地位を得た。多くの門人を育てた。塩川文麟、柴田是真ら多くの門人がいる。弘化2年、73歳で死去した。
岡山(13)-画人伝・INDEX
文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-、岡山の美術 近代絵画の系譜