江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

岡山に南画を伝えた讃岐の黒田綾山と肥前の釧雲泉

黒田綾山「虎に叭々鳥図」

岡山に本格的な南画を伝えたのは讃岐の黒田綾山(1755-1814)である。綾山は、福原五岳に学び、人物画を得意とした。安永9年ころに備中玉島に遊び、この土地を愛し、天明5に再来して終生玉島に住んだ。西山拙斎、頼春水、菅茶山らと親交があり、備前・備中にわたって南画を指導し、のちに四条派の代表的画人となる岡本豊彦、小野雲鵬らを育てた。また、肥前島原出身の釧雲泉(1759-1811)は、長崎で明清画を研究した後に、各地を遊歴し、岡山には寛政年間のはじめに訪れ、数年間滞在して画作に励んでいる。備前の小橋陶復はこの時期の門人であり、陶復にも多くの門人がいる。また、雲泉は、画人としても知られる庭瀬藩の江戸家老・海野蠖斎とも親しく交流している。

黒田綾山(1755-1814)
宝暦5年高松生まれ。名は良、字は亮輔、忠良。別号に起雲、南海山人、石隠、雲翁などがある。福原五岳に学んだ。備中玉島に定住し、多くの門人を育て、岡山南画の普及に貢献した。画域は広いが、とくに人物画を得意とした。文化11年、60歳で死去した。

釧雲泉(1759-1811)
宝暦9年島原生まれ。名は就、字は仲孚、別号に岱岳、六石などがある。長崎に出て明清画を研究した後に、四国、山陽、大坂、江戸と遊歴し、文化8年、越後出雲崎において53歳で死去した。

岡本綾江(1742頃-1823)
寛保2年頃生まれ。名は直、通称は團右衛門。浅口郡黒崎村の人。代々染織を家業としていた。幼いころから画を好み、黒田綾山に師事して高弟となった。歴史画をよくし、特に人物を得意とし、故実にも精通していた。文政6年、82歳で死去した。

守屋中岳(不明-不明)
文政頃の窪屋郡日吉村の人。通称は俊平。黒田綾山に師事した。

小橋陶復(1764-1820)
明和元年生まれ。姓は平、名は貞公、通称は市蔵。別号に平咸、姑射山人などがある。父は和気郡香登の大庄屋で、そのあとを継いだ。幼いころから画を好み、ちょうど備南地方を遊歴中の釧雲泉に師事し、山水、墨竹、墨梅などを学んだ。伊部焼の陶器に竹を描いた風趣を添えることは陶復によってはじめられたとされる。文政3年、57歳で死去した。

佐藤陶崖(1787-1843)
天明7年生まれ。名は信睦、字は子修、通称は次郎吉あるいは左次右衛門、のちに貫一といった。和気郡伊部村の人。医業のかたわら備前焼の陶器をつくり、画を小橋陶復にまなび、書道もよくした。著書に『陶崖画譜』がある。天保14年、57歳で死去した。

小橋香村(1793頃-1859)
寛政5年頃生まれ。名は信衡、通称は源太郎。小橋陶復の長男。和気郡香登の人。画を父の陶復に学び、墨梅を得意とした。伊勢松坂に長く住み、晩年郷里に帰り、安政6年、67歳で死去した。

末藤要造(不明-不明)
画を好み小橋陶復に師事し、のちに寺院を巡歴して僧侶に教えた。明治初年頃、78歳で死去した。

楠原竹堂(不明-不明)
幕末の人。字は正景、通称は富右衛門。小橋香村に画を学び、狂歌もよくした。

海野蠖斎(1748-1833)
寛延元年生まれ。本姓は森岡氏。海野氏を継いで備中庭瀬藩の江戸家老になった。画技に長じ、釧雲泉と親しく交友した。詩文、書もよくした。天保4年、86歳で死去した。

岡山(10)画人伝・INDEX

文献:岡山ゆかりの画人たち-桃山から幕末まで-、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典