江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

備前岡山藩の狩野派

池田綱政「文殊図」

備前岡山藩の御用絵師は、狩野三徳、狩野自得、長谷川常時の狩野派三家が代々つとめていたされるが、狩野守則、長谷川常時、長谷川常宇らの作品が少数残っているのが確認される程度で、伝わる資料も少ない。それに対し、狩野派の絵師に学んだ池田家歴代藩主の作品は、領内の社寺を中心に比較的多く残っている。池田綱政、池田継政は名手とされ、御用絵師に匹敵する技術だったという。

また、江戸時代に京都の浮世絵師として異色の存在だった西川祐信が、狩野自得と名乗って岡山藩の初代御用絵師をつとめたと記す資料もあるが、定かではない。

池田綱政(1638-1714)いけだ・つなまさ
寛永15年生まれ。岡山藩4代藩主。名君といわれた池田光政の長男。能楽、和歌、絵画などを愛好した。画は狩野派に学び、谷文晁の『本朝画纂』にも名手として登場している。残っている作品は、子の継政、孫の治政に比べて少ないが、山水、花鳥のほか、能絵年鑑や仏画まで幅広く手がけている。正徳4年、77歳で死去した。

池田継政(1702-1776)いけだ・つぐまさ
元禄15年生まれ。岡山藩5代藩主、池田綱政の長男。父の綱政同様に、和歌、絵画、書などを好んだ風流人で、能楽には特に造詣が深かった。狩野派に学び、作品は領内の社寺や旧家で多く残されており、特に父綱政が池田家の菩提寺として建立した曹源寺(岡山市円山)には10余点の作品が伝わっている。技術は御用絵師に匹敵し、岡山きっての狩野派の名手とされる。安永5年、75歳で死去した。

狩野守則「和漢故事人物図押絵貼屏風」(部分)

狩野守則(不明-不明)かのう・もりのり
岡山藩御用絵師、幽直と号した。号から探幽守信の弟子と思われる。享保頃に活躍した。また、三徳の家の者と伝わるが詳しくはわからない。

長谷川常時(不明-1726)
岡山藩御用絵師、養辰と号した。紀州徳川の侍医・三慶の二男。狩野養朴常信の門に学び、四天王の一人として名声をはせた。常信の推薦で毎年二回備前藩に来て、藩主・池田綱政の絵画師範をつとめた。享保11年死去した。

長谷川常雄(不明-1757)
岡山藩御用絵師、如辰と号した。長谷川常時の長男。父及び狩野周信に学び、のちに池田継政に仕えた。宝暦7年死去した。

長谷川常宇(不明-1784)
岡山藩御用絵師、幸芳と号した。長谷川常雄の弟。塩見利行の二男・融記を養子にした。天明4年死去した。

長谷川融記(1770?-1844)
狩野融川院の門人。池田氏に仕えた。弘化元年、73歳で死去した。

長谷川勝厳(1829?-1895)
岡山藩御用絵師、狩野勝川院雅信に師事した。池田氏に仕えた。蔓延元年の江戸城改築の際に狩野芳崖、橋本雅邦とともに襖、杉戸に画を揮毫した。明治28年、67歳で死去した。

狩野自得(不明-不明)
岡山藩御用絵師、本名は西川。名は祐信。狩野三徳の子。はじめ画を狩野永訥および土佐光祐に学び、のちに浮世絵の一派をなしたとされる。

岡山(3)画人伝・INDEX

文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-、備作人名大辞典