昭和に入ると、それまで官展中心だった大分県出身の洋画家のなかでも、在野団体で個性的な作品を発表し、名をなす者が出てきた。荒井龍男(1904-1955)は中津市に生まれ、幼くして家族とともに朝鮮に渡り、独学で絵を修得、急逝するまでの23年間に次々と問題作を発表し、常に日本洋画壇の先頭に立って活躍した。
昭和7年に二科展に初入選して画業を開始した荒井は、昭和9年にはシベリア経由で渡仏し、デュフィやザッキンのアトリエを訪問して指導を受けた。帰国後は、東京に居を定め、昭和12年に山口薫、長谷川三郎、村井正誠、難波田龍起らと自由美術家協会(のちに自由美術協会と改称)を設立するが、昭和25年、左翼的リアリズム派とは同調しかねるとの理由から、山口薫、村井正誠、小松義雄らとともに自由美術協会を脱退、同年モダンアート協会を結成した。この年を境に自然形態は簡略化され、詩的な抽象へと画風が変化していった。
昭和27年には米国へと旅立ち、昭和30年に帰国するまで、ニューヨーク、パリ、サンパウロなど各地で個展を開催し好評を博した。その後の活躍も期待されたが、昭和30年の帰国後、同年ブリヂストン美術館で開催した個展の直後、ガンのため急逝した。
ほかには、独立美術協会の結成に尽力した日本的フォーヴの代表的画家のひとり・林重義、官展を脱退して同志と新制作派協会を創立して反官展の気勢をあげた佐藤敬、版画から油彩画に転じて異色な純粋抽象画家として国際展などで活躍した宇治山哲平、心象絵画の表現を続け、独自の画境を確立した糸園和三郎らが次々と登場してきた。
また、武藤完一と武田由平は、ともに岐阜県生まれだが、武藤は県師範学校に、武田は中津中学校に教員として赴任し、教育者として、または版画家として多くの後進を育て、大分県の美術振興に尽力した。
戦後は、荒井龍男、佐藤敬、宇治山哲平、糸園和三郎に加え、国画会の重鎮として重厚な画境を示した熊谷九寿、「狂女シリーズ」などを発表しユニークな活動を続けた美術文化協会の幸寿らも、独自の表現様式を求め、充実した創作活動を展開した。なかでも宇治山哲平は戦後ほとんどの時期を大分の地で制作し、地元美術界に大きな影響力を持った。
荒井龍男(1904-1955)あらい・たつお
明治37年中津市生まれ。幼くして家族とともに朝鮮に渡り、朝鮮総督府の官吏となったが、二科展や朝鮮美術展に入選したのを機に職を辞して30歳の時に渡仏、彫刻家のオシップ・ザッキンと親交を持った。帰国後、昭和12年自由美術家協会の結成に参加し、戦後までここを主な作品発表の場とした。戦後は美術団体連合展や読売アンデパンダン展でも活躍するが、作風は次第に抽象化の方向に傾いていった。昭和25年村井正誠、山口薫らとともに自由美術協会を退会して、新たにモダンアート協会を設立。昭和27年にアメリカ、フランス、ブラジル、翌28年にはニューヨークのリバーサイド美術館、パリのギャラリークルーズ、翌29年にはサンパウロ近代美術館と各地で個展を開催、大きな成功をおさめて翌30年に帰国した。帰国直後、サンパウロ・ビエンナーレに出品。また、ブリヂストン美術館で帰朝展を開催して将来を嘱望されるが、病を得て、昭和30年、51歳で死去した。
林重義(1896-1944)はやし・しげよし
明治29年兵庫県神戸市生まれ。大正2年中学を中退して庭山耕園塾に入門。翌年京都府立絵画専門学校に入学するが、大正5年同校を退学して関西美術院に入った。翌年強度の神経衰弱のため父の郷里である大分県臼杵市に帰った。大正9年京都に出て鹿子木孟郎に師事した。大正11年小林和作とともに上京。翌年第10回二科展に初入選。大正14年には第6回中央美術展で中央美術賞を受賞した。翌年1930年協会の会員となるが、まもなく古賀春江らと脱退した。同年二科展で二科賞を受賞。昭和3年小林和作らと渡仏。昭和4年二科会会員となった。翌年フランスから帰国し、二科展で渡欧作20点を陳列するが、同年退会して独立美術協会の結成に参加した。昭和12年に同会を脱退。以後は主に新文展に出品し、昭和17年国画会会員となった。昭和19年、47歳で死去した。
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佐藤敬(1906-1978)さとう・けい
明治39年大分市生まれ。大正14年上京し川端画学校で学び、翌年東京美術学校西洋科に入学した。在学中から帝展に出品。昭和4年第10回帝展に初入選した。昭和5年渡仏。翌年東京美術学校を卒業した。パリではサロン・ドートンヌに出品する一方、帝展にも作品を送り続け、昭和7年第13回帝展では特選となった。昭和9年帰国。翌年帝展改組にともなう第二部会の設立に参加、同年の第1回文展で文化賞を受賞、新会員に推挙された。昭和11年猪熊弦一郎、伊勢正義、脇田和、中西利雄、内田巌、小磯良平らとともに新制作派協会を創立、以後この会で活躍した。戦時中は軍の報道班員として戦争記録画を描いた。昭和27年再び渡仏し、以後はパリを中心に個展を開催したほか、ヴェニスベ・ビエンナーレ、日本国際美術展などに出品した。昭和53年、71歳で死去した。
宇治山哲平(1910-1986)うじやま・てっぺい
明治43年日田市豆田町生まれ。本名は哲夫。昭和4年日田工芸学校描金科に入学、漆芸蒔絵の技術を習得した。昭和6年次第に版画の世界に引き付けられ、この年の第一美術協会展に木版画作品を出品、初入選となった。昭和14年国画会で油彩画が入選。昭和18年国画会会友に推挙され、翌年には会員になった。昭和25年国画会中堅会員らと型生派美術協会を結成。昭和46年毎日芸術賞を受賞。同年大分県立芸術短期大学長に就任した。昭和48年西日本文化賞を受賞。昭和61年、75歳で死去した。
糸園和三郎(1911-2001)いとぞの・わさぶろう
明治44年中津市生まれ。昭和2年、16歳の時に上京し父の勧めで川端画学校に通い、昭和4年には前田写実研究所に入った。昭和8年、塚原清一らと四軌会を結成、翌年飾画と改称した。昭和13年、飾画の作家を中心に創紀美術協会を結成した。昭和14年美術文化協会の創立に参加。昭和18年井上長三郎の呼びかけにより新人画会の結成に参加。昭和22年美術文化協会を退会し、自由美術家協会に移った。昭和39年自由美術協会を退会し、以後無所属となった。昭和44年前田寛治門下生による涛の会、自由美術協会時代の友人と樹会を起こした。平成13年、89歳で死去した。
武藤完一(1892-1982)むとう・かんいち
明治25年岐阜県鷺田村生まれ。川端画学校洋画科に入学し、藤島武二に師事した。大正14年大分県師範学校の図画教師として赴任、以来美術教育に従事した。そのかたわら、平塚運一の講習会を機に木版画の制作を始め、昭和6年日本版画協会展に入選。同年版画誌「彫りと擦り」(のちに九州版画と改題)を創刊した。この頃からエッチングを制作、官展に出品した。昭和14年日本版画協会会員。翌年日本エッチング協会創立に参加した。昭和35年棟方志功、永瀬義郎、武田由平らと日版会を創立した。著書に『大分風景五十景版画集』『創作版画集』がある。昭和57年、89歳で死去した。
武田由平(1892-1989)たけだ・よしへい
明治25年岐阜県高山市生まれ。大正3年岐阜師範学校卒業後、13年間教壇に立った。大正6年頃山本鼎に感銘を受け、版画制作に入った。昭和4年、大分県立中津中学校の図画教師となった。日本版画協会展、春陽会展、新版画集団展などに出品、昭和11年文展に初入選した。以後、新文展、日展に出品し、国際展にも出品した。昭和10年中津市耶馬渓クラブで個展した。平成元年、97歳で死去した。
熊谷九寿(1908-1993)くまがい・きゅうじゅ
明治41年中津市生まれ。本名は久寿夫。関西美術院を卒業。昭和17年梅原龍三郎、福島繁太郎の推薦により国画会会員に迎えられ、以後同展を主な作品発表の場とした。昭和25年国画会の杉本健吉、香月泰男、須田剋太、原精一、宇治山哲平、国松登らと型生派美術家協会を結成した。翌26年第2回秀作美術展、第5回美術団体連合展、昭和30年第6回秀作美術展に出品。昭和37年渡欧し、帰国後も杉本健吉、須田尅太らとグループ展を続けた。平成5年、84歳で死去した。
幸寿(1911-2003)ゆき・ひさし
明治44年大野郡千歳村生まれ。早稲田大学中退後、独学で絵を学んだ。昭和11年独立展に初入選。3年間出品を続けた。昭和15年から美術文化協会展に出品し、昭和18年同展で受賞し会員となった。戦後、昭和31年から2年間大分の精神病院に起居し、「狂女シリーズ」を描いて特異な画風を確立した。昭和33年新象作家協会の創立に参加。昭和35年現代日本美術展に出品したのをはじめ東京、九州各地で精力的に個展を開いた。平成15年、92歳で死去した。
大分(37)-画人伝・INDEX
文献:大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選