報道錦絵などで人気を博した挿絵画家・右田年英(1862-1925)は臼杵の生まれで、14歳の時に東京に出て、歌川派の月岡芳年の門に学び、水野年方、稲野年恒とともに芳年門の三傑と称されるようになった。芳年門からは多くの優れた美人画家を出ており、水野年方の門からは美人画の大家・鏑木清方が出て、さらに伊東深水へと続き、浮世絵系美人画の中核をなした。また、稲野年恒の門からは、のちに画壇の悪魔派と呼ばれる北野恒富が出て、大阪画壇の美人画を牽引した。
臼杵には歌川派の開祖・歌川豊春の出身地説があるが、のちに鏑木清方は、臼杵出身の年英について、その著書『こしかたの記』の中で、「(年英は)私の師(水野)年方と同門であるが、浮世絵という概念からはかけはなれて、至極健康に、おおどかな筆致を有っていた。それについて想い起すのは歌川派の始祖豊春が豊後の臼杵の出で、右田氏と同郷である。そこに相通じる郷土性のゆたかさを見る」と語っている。
年英は、美人画、役者絵などの錦絵や日清・日露戦争の報道錦絵を手掛ける一方で、朝日新聞の専属画家として40年近くも新聞小説の挿絵を描き続けたが、画家としての地位や名誉には無欲だったこともあり、あまり画名は高まらなかった。活躍期が浮世絵の衰退期から挿絵画家という職業の地位確立前だったことから、名を残すには不利な状況だったのかもしれない。
右田年英(1862-1925)
文久2年豊後国臼杵生まれ。名は豊彦、俗称は豊作。別号に晩翠楼、一穎斎、梧斎がある。14歳の時に叔母と弟寅彦とともに東京に出て、明治の儒学者・高谷龍州の斎美校、三菱商業学校に学び、ついで国沢新九郎、本多錦吉郎に洋画を学び、その後、歌川派の月岡芳年に入門した。明治20年頃からは、「東京朝日新聞」の前身である「めさまし新聞」の社員として、新聞挿絵や役者・風俗画、また日清・日露戦争の錦絵を描いた。明治27年の日清戦争の際には、戦場を克明に写し取る「報道錦絵」は、重要な情報源として大変な人気だったが、写真版などの発達により、その後錦絵の分野での活躍は少なくなった。門人には、鰭崎英朋、河合英忠、山本英春、笹井英昭らがいる。大正14年、63歳で死去した。
大分(23)-画人伝・INDEX
文献:右田年英と明治の挿絵画家展、原色浮世絵大百科事典第2巻、日本の版画Ⅰ1900-1910 版のかたち百相、臼杵史談21号「右田豊彦(年英)寅彦兄弟」(著者:久多羅木儀一郎)、こしかたの記(著者:鏑木清方)