江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

竹田門下の夭折の鬼才・高橋草坪

高橋草坪「寒江独釣図」大分県立美術館蔵

田能村竹田が画才を認め、最も期待していた門人は、杵築の高橋草坪(1804-1835)とされる。いかに竹田が草坪の画才を認めていたかは、自著『竹田荘師友画録』に門人のなかで唯ひとり取り上げられていることや、画事に関する自身の考え方をたびたび書簡で草坪に送っていたことなどからも伺い知れる。また、頼山陽は草坪の画に「草坪腕底無一点塵」の賛を入れてその画技を讃え、篠崎小竹は才能豊かな草坪に姪を嫁がせようとし、浦上春琴は草坪の画を中国人の画と勘違いして弟子入りしたいと申し出た、などの逸話も残っている。

幼いころから画才を現わしていた草坪は、はじめ同郷の長谷部柳園(1780-1860)に画の指導を受けた。柳園は杵築地方の南画をはじめた人物のひとりとされるが、草坪の学習はこの時点ではまだ本格的なものではなかったとみられる。草坪の画運が急転するのは、田能村竹田との出会いからである。文政5年、杵築に来遊してきた竹田は、草坪宅の筋向いにある佐和屋・荒巻啓助宅に滞在し、柳園らと交遊した。この時に草坪は竹田によって才能を見出され、入門を果たし、竹田の帰途に同行して竹田荘に入った。

文政6年には、竹田に従って初めての京遊に出た。竹田の友人である菅茶山、頼山陽、雲華上人、浦上春琴らそうそうたる文人と接して学問や作画の指導を受けるなかで、草坪の画技は一気に深まっていった。その後は病のため一時帰郷することもあったが、京坂にたびたび訪れ、竹田の教え通りに世俗的な画風に染まることなく、勢力的に画技の追究を続けていった。天保元年、草坪は再び竹田と京遊に出るが、それ以降、師と離れ、没するまで大坂を中心に過ごした。この時期がもっとも画業が充実しており、完成度の高い作品を次々に世に送り出していった。

草坪に関する資料は少なく、生年も不確かだが、晩年になるとさらに曖昧になる。死の2年前の天保4年以降は、遺作も激減し、資料も途絶える。竹田は天保4年に2度大坂を訪れ比較的長く滞在しているが、その際の日記などにも草坪の記録は残っていない。草坪の最期を知る資料としては、豊後高田の画人・柏木蕗村(1807-不明)が、その著書『蕗村雑話巻之一』のなかで、草坪を見舞ったことや、その死を長谷部柳園に伝えたことなどを語っている。帰郷を勧める蕗村に対して、草坪はそれを拒絶して画に対する情熱を示したというが、その願いも叶わず32歳で早世した。

高橋草坪(1804-1835)
文化元年杵築生まれ。商家槙屋・高橋休平の二男。名は雨、字は草坪、元吉、通称は富三郎。初号は六山、のちに草坪と改号した。はじめ同郷の画人・長谷部柳園について画を学んだが、文政5年に田能村竹田が杵築を訪れたのを機に竹田に入門、竹田に同行して竹田荘に入った。翌年、竹田とともに京遊の旅に出て以降、竹田の指導を受けながら度々京坂に滞在し、頼山陽や浦上春琴、岡田半江らとの交遊を重ねるなかで、画技を上達させていった。天保元年竹田とともに京都に出て、それ以降は大坂を中心に活動した。次第に画名は高くなるが、天保4年病に倒れ、一時は死亡説が流れた。著書に家屋と人物描法のみを整理した『撫古画式』がある。天保6年、32歳で死去した。

長谷部柳園(1780-1860)
安永9年杵築町鴨川五田生まれ。名は馨、通称は清助。別号に箕山がある。長じて江戸に出て渡辺玄対に学び、帰郷して杵築西新町に住んで画を描いた。高橋草坪はそのころの門人とされる。画のほか俳諧もよくした。また、田能村竹田とも交遊した。万延元年、81歳で死去した。

柏木蕗村(1807-不明)
文化4年豊後高田田染町大字蕗生まれ。名は章。別号に豊渓、豊陽外史、高蔭などがある。幼いころに田能村竹田に学び、20歳の時に京都に住み、岸岱に師事した。天保8年頃に帰郷したが、2年ほどで再び京都に行き、再び帰らず京都で死去した。

大分(14)-画人伝・INDEX

文献:幻の南画家 高橋草坪、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、杵築の書画人名鑑、竹田荘師友画録、田能村竹田と上方文化、大分県立芸術会館所蔵作品選図録