江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

豊後杵築藩絵師・光琳派の足立秋英

足立秋英「牡丹孔雀図屏風」大分県立美術館蔵

中津藩と同じく杵築藩でも狩野派の藩絵師の存在は確認できない。時代は下るが、杵築藩第九代藩主・松平親良(1810-1891)が狩野勝川に、藩絵師の足立秋英(1825-1895)が狩野探原に一時期学んでいるが、秋英はその後、光琳派の池田孤邨について画技を深め、藩主・親良もその秋英を師としている。秋英の初期の師である田辺文琦(1801-1869)は、谷文晁に師事し、茶道をもって仕え、のちに藩絵師となった。文琦のいとこも文晁に師事、養子となって谷文三と名乗った。

足立秋英(1825-1895)
文政8年生まれ。杵築藩絵師。幼名は国太郎、諱は祐之、字は子英。別号に臥龍軒、臥雲、蕃龍庵、純々石などがある。はじめ画を十市石谷に学び、のちに田辺文琦に学んだが、23歳の時に、藩主に従って江戸に出て、狩野探原に師事、さらに光琳派の池田孤邨について画技を深めた。茶道、禅道なども修め、後年は藩主・親良の師をつとめた。維新後は、姫島村戸長となり、同地の大帯八幡の祠官も兼ねた。明治11年に姫島戸長を辞職し、明治15年には狩宿村の御ノ池付近に移住した。明治28年、73歳で死去した。

松平親良(1810-1891)
文化7年江戸桜田邸生まれ。杵築藩第九代藩主。八代藩主・松平親明の子。幼名は龍之助。16歳で家督を継いだ。文武両道で、馬術、槍術、砲術などに加え、歌謡、能曲、茶道、華道にいたるまで奥義を極めたとされ、弘化2年、炎上した江戸城本丸の再建落成の祝儀として御能会が催された際には、大広間で御能の舞台をつとめた。画は狩野勝川、田辺文琦、足立秋英に学び、詩、書、和歌などもよくした。慶応4年隠居して杵築に帰った。明治24年、82歳で死去した。

田辺文琦(1801-1869)
享和元年国東郡富永村生まれ。名は喜文治、通称は義琦。別号に富川翁、孖川翁、青霞がある。祖父は絵を好み、父は茶楽斎と号して茶道を、叔父は茶道をもって藩に仕えた。いとこ(のちの谷文三)と共に江戸に出て、谷文晁に師事した。茶道をもって仕え、のちに絵師となり、晩年は守江の藩の御茶屋に引きこもり画作にいそしんだ。明治2年、69歳で死去した。

谷文三(不明-不明)
東国東郡富永生まれ。田辺文琦のいとこ。画を江戸の谷文晁に学び、養子となり、文晁の子、文一、文二についで、文三と命名された。後年は江州の粟津家の養子となり、画をもって本多膳所侯の画員となり、画名を高くしたが、壮年で没した。

荘野南崖(1835?-1905)
仲町生まれ。名は諸平。家は代々の薬種商で屋号は須磨屋。八代の当主。石川流の茶道に優れ、俳句をよくし、画は足立秋英に学んだ。明治38年、70歳で死去した。

岡春英(1874-不明)
明治7年東国東郡安芸町生まれ。名は正宣、通称は豊。初号は御舟、のちに英豊、さらに春英と改めた。はじめ足立秋英に学び、のちに十市石田につき、さらに末永天山、安部梅処らに師事して画技を深めた。

大分(7)-画人伝・INDEX

文献:大分県画人名鑑、大分県史、大分県立芸術会館所蔵作品選図録