岡藩絵師・淵野真斎とともに備中の画人・淵上旭江に学んだ、渡辺家の初代・渡辺蓬島(1753-1835)は、藩に仕えることなく、終身町人絵師として活動した。子の拈華は父の後を継ぎ画家となり、田能村竹田に学び、師の画風をよく継承し、画技をもって士分に取り立てられ、藩絵師をつとめた。
渡辺家は、岡藩在町玉来の出身で、渡辺蓬島の祖父の代に竹田にきたが、父・喜左衛門の代から家業が傾きだしたため、蓬島は新たに表具を家業とし渡辺家を建て直した。淵上旭江に学び、淵野真斎とともに岡藩における新しい絵画学習の先駆けとなった蓬島は、田能村竹田に先輩として影響を与え、竹田とは米船社・竹田社で研鑽を積んだ仲間として晩年まで親しく交流した。
渡辺蓬島(1753-1835)
旧竹田町の人。名は寧、字は文邦。別号に華亭、壮華亭、果亭、和鼎などがある。画のほかに狂歌などもよくし、栗邦、猿麿呂などとも号した。表具を業とし、屋号を播磨屋と称した。学問を好み、岡藩の学者・清原雄風に学んだ。26歳の時に、たまたま来遊した淵上旭江に画を学び、のちに北山寒巌らについて画を修め、画家になった。終身藩には仕えず、町絵師として活動した。茶道もよくした。天保9年、83歳で死去した。
渡辺拈華(1799-1872)
岡藩絵師。渡辺蓬島の長男。幼名は大太郎、名は節、字は遇節。別号に老嶽、大多楼などがある。父の跡を継いで画家となり、父の業である表具業を業とした。幼いころから父に画の手ほどきを受け、さらに田能村竹田に学び、同門の帆足杏雨、田能村直入らとも親交があったとされる。18歳のころに、二人の弟とともに病の父を背負って、藩外の物見遊山に出て、父を旅中でなぐさめるなど、その親孝行ぶりは有名で、しばしば報賞を受けたという。20代のころから画技をかわれて藩校由学館の詩会に供する画の制作を担当するようになり、そうした業務に携わる者たちの指導者的立場にあったと思われる。60代で長年の功績により、一代限りの藩絵師として召し抱えられた。人物画をよくしたが、藩の需要に応じてさまざまな流派の模写も行なっていたようで、画技の幅は広い。明治5年、74歳で死去した。
大分(5)-画人伝・INDEX
文献:岡藩の絵師たち-淵野家と渡邊家-、大分県史