江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

「樹」シリーズで人気を博した星襄一と新潟の版画家

星襄一「王の樹」

星襄一(1913-1979)は、新潟県北魚沼郡小出町(現在の魚沼市)に生まれた。星家は、襄一の少年時代に東京で孔版業を営んでいたが、大正12年の関東大震災で被災して帰郷した。襄一は、17歳で六日町中学校を卒業して台湾に渡り、台南師範学校を卒業して同地で教職について書道を教え、13年間初等学校の教員をつとめた。

昭和21年、32歳の時に終戦により台湾から故郷の小出町に引き揚げ、家業の孔版業を継ぎ「北光社」というガリ版屋を開いた。青年団の機関誌などを引き受け、文章にあわせてカットや挿絵を入れて評判となり、それをきっかけとして孔版画による創作をはじめた。

昭和24年、孔版画による作品で日本版画協会展で協会賞を受賞し、日本版画協会の会員となった。これを機に本格的に画家として活動すべく、家業をすてて上京、武蔵野美術学校に入学して油絵を学びはじめた。

昭和31年、42歳で同校を卒業後は木版画を独修し、水・雪・星をテーマに作品を制作し、昭和34年の第33回国展で国画賞を受賞。以後、国画会、日本版画協会を中心に発表を続け、東京国際ビエンナーレや欧米の国際展にも出品した。

昭和44年に千葉市に移住したが、この頃に母親の言葉をきっかけに抽象から具象に転換し、「樹」シリーズが制作されたと伝わっている。

星襄一(1913-1979)ほし・じょういち
大正2年北魚沼郡小出町(現在の魚沼市)生まれ。昭和6年六日町中学校卒業後、台湾に渡り台南師範学校に入学、翌年同校卒業し、台湾で13年間初等学校教員をつとめた。昭和21年、32歳の時に台湾から引き揚げ新潟に帰り、ガリ版屋を開き、孔版画をはじめた。昭和23年日本版画協会展に初出品し、翌年同展で根市賞を受賞。昭和27年会員となった。これを機に画家を志し上京、武蔵野美術学校に入学し油絵を学び、昭和31年の同校卒業後は、木版画を独修した。昭和34年国展で国画賞を受賞、翌年国画会会員となった。昭和54年、65歳で死去した。

深沢索一(1896-1947)ふかざわ・さくいち
明治29年西蒲原郡吉田町(現在の燕市)生まれ。巻町で育った。本名は作一。文学を志して大正元年に両親とともに上京し、東京中央商業高校を卒業。諏訪兼紀らに出会い、大正7、8年頃から版画をはじめた。大正11年「詩と版画」を創刊、同誌に詩と版画を発表した。同年第4回日本創作版画協会展に初出品し、昭和3年会員となった。同年新設された春陽会の版画室に出品。同年平塚運一、恩地孝四郎らと卓上社を結成、昭和4年から「新東京百景」の刊行をはじめた。昭和22年、50歳で死去した。

品川工(1908-2009)しながわ・たくみ
明治41年柏崎市生まれ。10歳の時に一家で上京し、昭和3年東京府立工芸学校金属科を卒業後、彫金家の宇野先眠に師事した。その後、兄とともに本郷の東京帝国大学前にレストラン「ペリカン」(後のペリカン書房)を開業、そこに集う多くの文学者や芸術家らと交流して美術に目覚め、昭和10年から恩地孝四郎に師事した。昭和18年農商省工芸指導所玩具研究室主任。昭和22年第21回国展で国画賞を受賞、同年日本版画協会展で協会賞を受賞し、翌年の第22回国展でも国画賞を受賞した。同年輸出工芸展で受賞。昭和31年アジア・アフリカ諸国展受賞。欧米各国の国際展にも盛んに出品した。平成21年、100歳で死去した。

高橋信一(1917-1986)たかはし・しんいち
大正6年佐渡郡加茂村梅津(現在の両津市)生まれ。昭和11年佐渡農学校を卒業後に新潟県立青年学校教員養成所に進み、同校卒業後は青年学校の教師となり、昭和24年からは両津高等学校に勤務し、農業、体育、美術を担当した。教職のかたわら版画を制作し、昭和32年現代版画コンクールで入賞、昭和35年には第28回日本版画協会展で恩地賞を受賞した。また、昭和34年に両津高校生版画作品集『版画佐渡』を刊行した。昭和51年教師を辞めて画業に専念し、スイス・ザイロン国際版画コンクールで受賞。昭和56年版画教育の功績により新潟県知事から表彰された。昭和59年佐渡版画村を設立し理事長に就任した。昭和61年、69歳で死去した。

新潟(51)-画人伝・INDEX

文献:星襄一回顧展-樹シリーズ全作品-、越佐書画名鑑 第2版、新潟の美術、越佐の画人、 越佐書画名鑑 第2版