江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

自然への共感を基底とする抽象画を描き続けた末松正樹

末松正樹「回想」新潟市美術館蔵

末松正樹(1908-1997)は、新潟県北蒲原郡新発田町(現在の新発田市)に生まれた。父親の転職に伴い各地を転々とし、新潟中学、宮崎中学などを経て山口高等学校文科に学んだ。22歳の時に一家で新発田に戻り、佐藤哲三や長谷川正巳らと知り合い、24歳の時には彼らと絵画研究所を開いた。

25歳で上京し逓信省東京中央電話局に就職した。近所にドイツの前衛舞踏「ノイエ・タンツ」を学んだ舞踏家・執行正俊が開いたスタジオがあり、仕事帰りに執行のもとで舞踏を学んだことから、ノイエ・タンツに関心を抱くようになり、昭和14年、31歳の時に欧州に渡った。

第2次世界大戦中はフランスにとどまり、戦争末期にスペイン国境に近いペルピニャンで抑留生活を強いられ、この時期から抽象絵画を描くようになった。「自然と抽象作品に向かった」と末松自身が語っていることから、他者との接触のない抑留生活が自己の内面との対話へと向かわせたとみられる。

昭和21年の帰国後は、自由美術家協会に再建に参加して会員となり、ついで主体美術協会の結成に参加して作品発表の場とした。初期の舞踏を想起させる「群像」シリーズから、光のあり方を追求した「光」シリーズまで、一貫して自然への共感を基底とする抽象作品を描き続けた。

末松正樹(1908-1997)すえまつ・まさき
明治41年北蒲原郡新発田町(現在の新発田市)生まれ。昭和5年山口高等学校を卒業。昭和6年佐藤哲三らと美術研究所を開設。昭和8年上京し逓信省東京中央電話局に就職、勤務のかたわら舞踊を学びグループ「舞踊新人群」を結成した。昭和14年渡欧。第二次大戦中南仏で抑留生活ののち昭和21年に帰国。昭和22年自由美術家協会の再建に参加。昭和23年日本アヴァンギャルド美術家クラブのモダンアート展に出品。昭和28年多摩美術大学教授に就任。昭和39年主体美術協会の結成に参加。平成9年、88歳で死去した。

新潟(50)-画人伝・INDEX

文献:末松正樹-その抽象と舞踏の時代、新潟の絵画100年展、新潟の美術、新潟市美術館 全所蔵作品図録(絵画編)