阿部展也(1912-1971)は、新潟県中蒲原郡五泉町(現在の五泉市)に生まれ、生後まもなく小須戸町の母の実家に預けられ祖父母のもとで育ち、学齢期の7歳になって東京の両親に引き取られた。
その後、中学校を中退して独学で制作をはじめ、昭和7年の第2回独立美術協会展に初入選し、その後も同展に出品しながら、昭和8年に末永胤生、砂川美智子と3人で一九四〇協会を結成し、前衛絵画運動を展開した。
昭和12年、瀧口修造との共作で詩画集『妖精の距離』を刊行。この詩画集は、12点の抽象的な素描に12篇の詩を添えたもので、この出版が契機となって阿部の仕事は一躍世間に知られるようになる。
昭和13年、糸園和三郎、北脇昇、寺田政明、古沢岩美らと創紀美術協会を結成。その翌年には独立美術協会を脱退し、同じく脱退した福沢一郎、寺田政明、杉全直らと美術文化協会を結成、超現実主義的な作品を追究していった。
また同時に前衛写真運動も旺盛に行ない、写真雑誌「フォトタイムス」に前衛写真を発表し、昭和13年には、瀧口修造、永田一脩、小石清、濱谷浩、村野四郎らと前衛写真協会を結成するなど、日本の写真史においても大きな足跡を残した。
戦時中は日本陸軍報道部に徴用され、写真班員としてフィリピンに従軍した。昭和21年の帰国後は画壇に復帰し、それまでの超現実主義的な作品から、表現主義的、立体派的な表現へと目まぐるしく作風を変化させ、モダンアート展、アンデパンダン展などに出品した。
また一方で、巧みな英語力をかわれて国際交流の最前線に立つことも多く、昭和28年には、日本美術家連盟の代表としてインドなどを訪れ、その後もたびたび各国を巡り、昭和37年には単身ローマに移住した。ローマにおいての制作では、次第に形態が明快になり、幾何学的な抽象へと変化していった。
阿部展也(1912-1971)あべ・のぶや
大正2年新潟県中蒲原郡五泉町(現在の五泉市)生まれ。名は芳文。生後まもなく家が大火に遭い7歳まで祖父母のもとで育った、大正9年東京の両親のもとに移り、大正15年小石川区市立京北中学校に入学したが4年で中退して独学で絵を学び、昭和7年第2回独立美術協会展に初入選。昭和12年瀧口修造との合作で詩画集『妖精の距離』を刊行。昭和13年糸園和三郎らと創紀美術協会を結成。同年瀧口修造らと前衛写真協会を結成。昭和14年独立美術協会を脱退して福沢一郎らと美術文化協会を結成。翌年召集され昭和16年から太平洋戦争に従軍し昭和21年復員。戦後は美術文化協会に復帰。昭和24年日本美術家連盟の創立に参加。昭和27年美術文化協会脱退。昭和28年日本美術家連盟代表として渡印。昭和37年8月イタリアのローマに定住。昭和46年、ローマにおいて58歳で死去した。
新潟(49)-画人伝・INDEX
文献:阿部展也-あくなき越境者、阿部展也展-画家・阿部展也発見、新潟の絵画100年展、新潟の美術、越佐の画人、新潟市美術館 全所蔵作品図録(絵画編)、越佐書画名鑑 第2版