金子孝信(1915-1942)は、新潟市の宮司の家に生まれた。生家は代々蒲原神社の宮司をつとめる家柄で、父親は神職のかたわら国学を修め、書、和歌などもたしなむ教養人だった。金子は、幼いころから好んで絵を描いていたという。
中学卒業後は、東京美術学校西洋画科への進学を希望したが、家族に反対されて旧制新潟高等学校(現在の新潟大学)を受験して不合格となり、上京して駿台高等予備校(現在の駿台予備学校)に通うことになった。しかし、絵画への情熱は抑えがたく、受験勉強に身が入らず、東京の風景ばかりを描いていた。
そしてついに、反対していた家族の許しを得て、昭和9年に東京美術学校を受験するが不合格となり、同年4月に皇典講究所(現在の國學院大學)神職養成部に入学した。一方で、絵の勉強も続け、川崎小虎、小泉勝爾を訪ねて個人指導を受けた。
昭和10年、20歳の時に2度目の受験で東京美術学校に合格。3月に皇典講究所を卒業して一等司業を受け、4月に東京美術学校日本画科に入学した。西洋画科ではなく日本画科を選んだのは、家族との約束で、美術学校受験の条件だった。
念願の美術学校に入学した金子だったが、社会は昭和11年の2・26事件を境に次第に軍事色を強めていき、制作に対する規制も厳しくなっていった。また、同年2月には松田改組による第1回帝展が開かれ、美術界も大きく揺れていた。そのような状況下で金子は、さまざまな疑問に悩みながら、自分独自の表現を模索していった。
掲載の「銀座街頭」は、ちょうどその頃、昭和11年に制作されたもので、平成25年(2013)に生家で発見された。この頃の金子は、戦時下で規制が厳しくなるなか、東京のモダンな都市風俗に画題を求め、暗くなりがちな世相に反発するかのように、華やかでモダンな人々の生活を描いている。
この年の10月10日の金子の絵日記「情熱」には、青山を散策した時の感想として「昨日青山の明治神宮参道なる同潤会アパートの前を通った時に、その並木なる欅の黄葉や深厳にして雄大な数十間の参道に、同じ形の部屋が総ゆる個性の人類に依りて、各々の装飾を試みたアパートの面白さ等、これは僕にとっては最もモダンにしてクラシックな風景画なのであった」と、青山の風景に強く惹かれたことを記している。
ところが、勇んで路上にイーゼルを立てたところ、巡査の取り締まりを受けてしまい、大いに気分を害したといい、その後の22日付の日記には「次の制作、"銀座界隈"とす」と記してあり、青山を断念し、銀座に取材したとみられる。
昭和15年、25歳の時に東京美術学校を首席で卒業。成績優秀な日本画科卒業生を対象とした川端奨学資金賞を受賞し、卒業制作の「季節の客」は優秀作品として同校買上げとなった。同年、紀元二千六百年奉祝日本画展に入選したが、その年の12月、現役兵として新発田の東部第23部隊に入隊した。
翌年5月、在学中から出品していた大日展に最後の作品となった「天之安河原」を出品。仙台の陸軍指導学校で学んだのち中国大陸に渡り、中支宜昌(現在の湖北省宜昌市)において26歳で戦死した。
、
金子孝信(1915-1942)かねこ・たかのぶ
大正4年新潟市長嶺生まれ。蒲原神社の宮司・金子孝二の二男。上京して東京美術学校を受験するが失敗、皇典講究所(現在の國學院大學)神職養成部に入学した。同所で学びながら川端画学校に入り、また東京美術学校教授の小泉勝爾に師事した。昭和10年、東京美術学校に再挑戦して入学。在学中は、結城素明、川崎小虎、川合玉堂、小泉勝爾、山田廉、常岡文亀、矢沢弦月らから教えを受けた。昭和11年9月、夏休みに帰郷した折に、同じ新潟出身で、当時東京美術学校に在学していたむ村山清光(彫刻)、永田鉄雄(油画)、村田豊(建築)、田中芳郎(鋳金)、田中豊男(図案)らと第1回白貌展を新潟新聞社本社3階ホールで開催。昭和15年に東京美術学校を首席で卒業し同年の紀元二千六百年奉祝日本画展に入選したが、同年12月に応召を受け入隊。昭和16年4月中国に送られ、5月紫金嶺で幹部候補生としての集合教育を受けた。この月に最後の作品となった「天之安河原」を大日展に出品。9月現隊を離れ、10月に仙台の陸軍指導学校に入学。翌年3月に卒業して4月に中支宜昌(現在の湖北省宜昌市)付近の現隊に復帰し、昭和17年、26歳で戦死した。
新潟(44)-画人伝・INDEX
文献:金子孝信展-1930年代、青春、東京、日本画、戦争。-、ある戦没画家の青春 金子孝信画集、新潟の絵画100年展、 記憶に残る新潟の画家、 新潟市美術館 全所蔵作品図録(絵画編)、越佐書画名鑑 第2版