日本における新興美術運動は、大正から昭和にかけて盛り上がりをみせ、既存の美術団体に満足できない美術家たちによって在野団体が次々と誕生し、その主張は前衛的傾向を帯びていった。そのような状況下で、矢部友衛(1892-1981)は、大正期は前衛グループ「アクション」の結成をはじめとした前衛美術運動を展開し、昭和に入ってからは「日本プロレタリア美術家同盟」を結成するなど、日本における前衛美術とプロレタリア美術運動の草分け的存在のひとりとして活躍した。
新潟県岩船郡村上町(現在の村上市)に生まれた矢部友衛は、上京して東京美術学校日本画科に学び、大正7年の同校卒業後はアメリカを経てフランスに渡り、パリでナビ派のモーリス・ドニに師事した。また、キュビスムのアンドレ・ロートの作風も研究した。大正11年に帰国し、同年の第9回二科展にロートの影響が濃厚な「鏡の前の女」と「習作」を出品した。
この作品が、二科会若手の前衛運動推進派を刺激し、同年、神原泰、古賀春江、中川紀元らと前衛グループ「アクション」を結成した。その後、大正13年に、ときの前衛美術諸団体を糾合した「三科造型美術協会」の結成に参加、さらに、岡本唐貴や浅野孟府らと前衛美術団体「造型」を創設するなど、大正期の前衛美術運動の中心人物として活動した。
昭和に入ってからは、昭和元年に日露芸術家協会委員としてソ連を訪れたのを機に、社会主義リアリズムを唱えるようになった。昭和3年には第1回プロレタリア大美術展を開催し、翌年には「日本プロレタリア美術家同盟」を結成、その委員長となった。昭和9年の同同盟解散後は、東西の美術の融合を目指した綜合リアリズム運動を提唱して「仲よし会」を組織、岡本唐貴ら10数人の仲間たちと新しいリアリズムを求めて絵画研究を続けた。
そして、終戦間もない昭和21年、岡本唐貴と「民主主義美術と綜合リアリズム」を刊行し、「現実会」を結成。同年第1回展を開催し、それまでの研究の成果として自然主義的な傾向に回帰した作品を発表した。その後も日本美術会に参加し、日本アンデパンダン展、個展などで発表を続けたが、次第に制作活動からは遠のいていった。
矢部友衛(1892-1981)やべ・ともえ
明治25年岩船郡村上町(現在の村上市)生まれ。大正7年東京美術学校日本画科を卒業。同年渡米し、その翌年には渡仏し、パリでモーリス・ドニに師事した。また、アンドレ・ロートの研究をした。大正11年に帰国して第9回二科展に出品、同年二科会内に神原泰らと前衛グループ「アクション」を結成。その後、大正13年に「三科造型美術協会」、大正15年に「造型」の創立に参加した。昭和に入ってからは、日本プロレタリア美術家同盟を結成し、戦後は硲伊之助らと日本美術会、現実会を結成した。昭和43年以降は岩船郡山北町桑川に住み、農漁民百態の連作に取り組んだ。昭和55年、89歳で死去した。
吉原義彦(1902-1958)よしはら・よしひこ
明治35年南蒲原郡中之島村生まれ。大正6年に長岡中学校を卒業、京都に出て京都高等工芸学校で図案を学び、卒業後宮内省に入り1年ほどつとめた。プロレタリア美術運動に共鳴し、大正15年の「造型」の結成に参加、昭和2年に「造型美術家協会」に組織を変え、さらに日本プロレタリア美術家同盟で委員となった。日中戦争では従軍画家となった。その後、一水会に所属し、第6回文展で岡田賞を受賞。帝展にも入選して無鑑査となった。昭和33年、56歳で死去した。
市村三男三(1904-1990)いちむら・みおぞう
明治37年中蒲原郡横越村生まれ。大正14年横浜高等工業応用化学科を卒業後、画家を志して川端画学校で学んだ。その後、矢部友衛を知り、昭和2年から「造型美術家協会」に参加した。昭和3年第1回プロレタリア大美術展に出品、翌年の「日本プロレタリア美術家同盟」の結成に参加した。同同盟解散後は矢部の「仲よし会」に参加した。戦時中は故郷に疎開し、戦後は昭和21年の「現実会」の創立に参加。昭和22年には「日本美術会」の結成に参加し、日本アンデパンダン展に毎回出品した。平成2年、86歳で死去した。
河辺昌久(1901-1990)かわべ・まさひさ
明治34年五泉市生まれ。大正10年日本歯科医学専門学校に入学。大正13年画廊九段の関東大震災復興参加構成員になった。同専門学校卒業後に安宅安五郎に師事。大正14年三科新興美術運動に参加。新潟市で個展。昭和6年新潟県展特選。昭和13年第25回二科展に初入選。昭和35年光陽会会員。昭和44年秋田農業博覧会に出品。昭和55年画集刊行。平成年、89歳で死去した。
新潟(32)-画人伝・INDEX
文献:大正の洋画展、新潟の絵画100年展、新潟の美術、越佐の画人、新潟市美術館全所蔵作品図録(絵画編)、矢部友衛と現実会の仲間たち展、ふるさとの作家たち展(新潟市新津美術館)、越佐書画名鑑第2版