江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

日本画における新古典主義的画風を確立した小林古径

小林古径「機織」東京国立近代美術館蔵

小林古径(1883-1957)は、新潟県中頚城郡高田土橋町(現在の上越市)に生まれた。11歳頃に山田於菟三郎に画の手ほどきを受け、ついで青木香葩に学び、明治32年、16歳の時に上京して梶田半古の画塾に入門した。入門して間もなく半古から「古径」の号を受け、これを終生の雅号とした。

入門した年に第7回日本絵画協会・第2回日本美術院連合共進会に入選するなど頭角を現し、若手日本画家の有望株とみなされるようになった。当初は世俗的な歴史画を描いていたが、大正期に入ると古典的な題材にロマン主義的香り漂う画風へと展開していく。

大正3年に第1回再興日本美術院展に出品し、前田青邨らとともに同人に推挙され、以後院展に出品した。大正11年、39歳の時に青邨とともに日本美術院留学生として渡欧、約1年にわたってイタリア、イギリス、フランス、エジプトなどを巡った。

ヨーロッパからの帰国後は、東洋の古典美をより一層強く認識するようになり、簡潔な構図と的確な描線を追究し、いわゆる新古典主義的と呼ばれる画風を確立していった。

掲載の「機織」は、大正15年に発表された作品で、制作ついての文章では、着色後墨で輪郭を再び描き起こす大和絵のつくり絵の技法を用いる一方で、織糸に西洋絵具を併用していることを明かし、さらに「何時とは知らず、其の鑑賞の上からも手法の上からも、材料の使用の上からも、日本画、洋画といふ厳めしい鉄柵の鎖はとけて、境界はおぼろになつて参ます」とも述べている。

小林古径(1883-1957)こばやし・こけい
明治16年新潟県中頚城郡高田土橋町(現在の上越市)生まれ。本名は茂。生家は代々高田榊原藩士をつとめた家柄で、父は地方官吏として新潟県内を転任した。明治27年山田於菟三郎に画の手ほどきを受け、ついで青木春葩に学び「秋香」と号した。明治32年上京して梶田半古の門に入り「古径」と改号した。明治40年半古塾の塾頭となり、同年第1回文展に入選した。明治42年岡倉天心の知遇を得る。大正元年第6回文展で褒状。大正3年第1回再興日本美術院展に出品して同人となり以後院展に出品。大正11年日本美術院留学生として渡欧。昭和5年日本美術院経営者の一人となった。昭和10年帝国美術院会員(のちに帝国芸術院に改組)会員。昭和19年東京美術学校教授。同年帝室技芸員。昭和25年文化勲章を受章した。昭和32年、74歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(小林古径)

新潟(25)-画人伝・INDEX

文献:小林古径展 2005、新潟の絵画100年展、新潟の美術、新潟の院展作家たち、 近代美術館とコレクション 新潟の美術、越佐書画名鑑 第2版