江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

退色しにくい「津端式絵具」を開発した津端道彦

津端道彦「文武」

津端道彦(1868-1938)は、新潟県中魚沼郡外丸村(現在の津南町外丸本村)に生まれた。生家は酒造業を営んでおり「菊水」という銘柄の酒を造っていた。父の荘六は藍亭と号して南画を描いており、道彦も少年時代から父について画を学び、青年時代には中魚沼、東頚城地方を遊歴した。

明治19年、18歳の時に上京して南画の福島柳圃の門に入り、その後26歳で大和絵系の住吉派・山名貫義に、28歳で土佐派の片山貫道に師事し、また松原佐久に有識故実を学んだ。

発表の場としては、師の山名貫義が発起人の一人である日本美術協会に所属し、同協会歴史部の主事を委嘱され、その後第一部委員をつとめた。また、帝国絵画協会会員、巽画会会員、日本画会客員でもあった。

明治40年に創設された文展にも出品し、第2回展で3等賞、大正元年の第6回展で最高賞の2等賞、その翌年の第7回展では3等賞を受賞するなど、日本美術協会の中心的存在として活躍した。

しかし、道彦の所属する日本美術協会は、岡倉天心率いる日本美術院系の新派と対立する旧派と位置付けられており、勢力を増す新派に押されて次第に活動は退潮に向かい、文展も第8回展以降は離れざるをえなくなった。

この頃から道彦は退色しない絵具の開発に没頭するようになった。そして、大正10年に目指していた絵具が完成、「津端式絵具」として大正12年に特許の認可も得て、商品化を目指して絵具会社を設立するが挫折、商品化はならなかった。

さらに、同年おきた関東大震災によって多くの作品が焼失、晩年は派の衰退とともに活躍の場も少なくなっていった。

なお、筆にもこだわっていた道彦が、生前特注して愛用していた筆は、現在でも東京の画材店・田中金華堂で「道彦面相筆」として販売されている。

津端道彦(1868-1938)つばた・みちひこ
明治元年新潟県中魚沼郡外丸村(現在の津南町外丸本村)生まれ。津端荘六の長男。幼名は魁、通称は為太郎。別号に住芸乃舎がある。はじめ長岡藩士・山口深造の塾で学び、明治19年に上京して福島柳圃に師事。のちに山名貫義、片山貫道に師事し、松原佐久に有識故実を学んだ。日本美術協会展、東京勧業博覧会などに歴史画を出品して多くの賞を得た。明治41年第2回文展で3等賞、明治45年第5回文展で褒状、大正元年第6回文展で2等賞、大正2年第7回展で3等賞を受賞。鶴見総持寺紫雲台の襖絵制作に参加した。多年にわたって絵具を研究し製造したことでも知られる。昭和13年、69歳で死去した。

新潟(21)-画人伝・INDEX

文献:津南の生んだ歴史画の真髄津端道彦集、越佐の画人、越佐書画名鑑 第2版