大倉雨村(1846-1899)は、新潟町(現在の新潟市)の医師・大倉良庵の子として生まれ、幼いころから地元の絵師・松尾紫山に画を学んだ。父の没後は江戸に出て、さらに長崎に行き鉄翁祖門に学んだ。27歳の時には清国に渡り、上海領事館に勤務するかたわら、胡公寿、張子祥らと交友を結び、王摩詰に私淑し、古人の名蹟にも学んで研鑽を積んだ。
上海に15年滞在したのちに帰国、その後は東京に住んだが、54歳の時に長崎に旅行し、帰路の岡山で母の病気の知らせを受け、脳溢血のため急死したという。
また、沼垂町(現在の新潟市)出身の長井雲坪(1833-1899)も、雨村と同じように医師の家に生まれ、長崎で鉄翁祖門に学んだあと、清国にわたり研鑽を積み、独自の画境を生み出したが、世に認められないまま信州で清貧に徹底した画家人生を送った。
大倉雨村(1846-1899)おおくら・うそん
弘化2年新潟町生まれ。医師・大倉良庵の子。名は行、通称は謹吾、字は顧言。別号に鉄農半仙がある。はじめ松尾紫山に画の手ほどきを受け、父の没後江戸に出てついで長崎で鉄翁祖門に師事した。明治5年、27歳の時に清国に渡り胡公寿、張子祥に学び、そのまま上海領事館に15年間勤務しながら南画を研究した。帰国後は東京で画業についた。明治32年、55歳で死去した。
新潟(20)-画人伝・INDEX
文献:新潟・文人去来-江戸時代の絵画をたのしむ、にいがた幕末の絵師、越佐の画人、越佐書画名鑑 第2版