江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

美人画を通して明治中期の女性風俗を描いた楊洲周延

楊洲周延〔真美人〕十二「団扇を持って踊る婦人」

越後高田藩の江戸詰藩士の子として江戸に生まれた楊洲周延(1838-1912)は、はじめ歌川国芳の門人となり、国芳の没後は役者絵で人気だった豊原国周に師事した。江戸藩邸で高田藩士としてつとめるかたわら絵筆をとり、慶応元年の長州戦争に従軍した際には、長州に向かう藩士らの様子を「長州征討行軍図」として描いている。

慶応4年におこった戊辰戦争では、高田藩の有志で編成された神木隊に所属して参戦し、上野戦争で敗れた後も榎本武揚らと箱館に逃れ、最後は五稜郭で降伏し捕らえられて東京に移送された。その後、謹慎のため越後の高田にしばらく滞在し、高田の絵師・青木崑山らと交流した。

浮世絵師として本格的に活動するのは明治に入ってからで、明治10年におこった西南戦争の際には、多くの戦争絵を描き、浮世絵師としての地位を築いていった。

多彩なジャンルの作品を手がけた周延だが、もっとも得意としたのは美人画で、明治20年以降は、美人画を通して女性風俗を描いて人気を博した。掲載の「真美人」は、明治中期の女性風俗を半身像で描いた全36点からなる人気シリーズで、明治30年から翌年にかけて刊行された。持ち物や調度品などの細部を丁寧に描くことで、和装でありながら近代的な雰囲気を伝えている。

楊洲周延〔真美人〕七「猫とたわむれる婦人」

楊洲周延(1838-1912)ようしゅう・ちかのぶ
天保9年江戸生まれ。越後高田榊原藩江戸詰の藩士・橋本直恕の子。名は直義。はじめ歌川国芳に師事し、ついで豊原国周の門人となった。国周に師事したのは慶応元年頃と思われ、この頃から生涯の雅号「楊洲周延」を名乗るようになった。戊辰戦争では神木隊に属し、上野や箱館五稜郭で戦った。戦後東京に戻り、一時、二代一鶴斎芳鶴と号した。大正元年、75歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(楊洲周延)

新潟(19)-画人伝・INDEX

文献:久比岐野画人展-地元で活躍した美の先駆者たち-、高田藩士が歩んだ浮世絵師の道、没後百年 楊洲周延 明治美人風俗、越佐書画名鑑 第2版