天保14年、幕府は長岡藩に対し、唐物抜荷事件の取締まり不備や北国方面の海岸防備の不十分さを理由に上知を命じて新潟を幕府直轄領とし、新潟奉行を新設、初代新潟奉行に勘定吟味役・川村修就の就任を命じた。修就は9年余りにわたって在職し、密貿易の取り締まりの強化を行ない、海防の拠点だった台場を築き、大砲を鋳造して訓練も行なった。
その一方で、書や和歌を学び、多くの歌を残すなど風雅を愛した。新潟奉行をつとめた最後の年には、新潟町の1年間の特徴的風景と思われる6景を配下の小尾勘五郎や絵師の雪汀らに描かせた「蜑(あま)の手振り」を制作し、各絵の後に自筆の詞書を添えている。
川村修就(1795-1878)かわむら・ながたか
寛政7年江戸下谷同朋町生まれ。川村家は江戸時代初期に紀州徳川家に仕え、吉宗に従って江戸に出て、江戸城天主台下の御庭番となった。天保8年に家督を継ぐと、当時老中主座にあった水野忠邦に認められ、天保12年に勘定吟味役に就任、天保14年新潟奉行の辞令を受け、新潟に北海防御の拠点づくりを進めるよう指示された。嘉永5年に堺奉行に任じられ新潟を離れ、その後、大坂西町奉行、長崎奉行などを歴任した。新潟の風俗を画家に描かせた「蜑の手振り」を制作し、自ら詞書を記した。明治11年、84歳で死去した。
新潟(15)-画人伝・INDEX
文献:初代新潟奉行 川村修就 (新潟市郷土資料館調査年報 ; 第22集)、新潟・文人去来-江戸時代の絵画をたのしむ、にいがた幕末の絵師