江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

良寛ら越後文人に大きな影響を与えた亀田鵬斎

亀田鵬斎「出雲崎より佐渡を望む図并詩」
糸魚川歴史民俗資料館《相馬御風記念館》蔵

江戸神田に生まれた亀田鵬斎(1752-1826)は、6歳頃から素読を飯塚肥山に、書を細井広沢の門人・三井親和に習い、14歳で医学塾躋寿館に入り、折衷学を唱える井上金峨について経書を学んだ。23歳の時には、赤坂の日枝神社近くに塾を開いた。

この私塾には、旗本や御家人の子弟が入門し、活況を呈し、巻菱湖、館柳湾ら多くの人材を輩出した。しかし、寛政2年の「寛政異学の禁」により、幕府の正学が朱子学に統一されたため、鵬斎たちの学問は禁止され、鵬斎は寛政9年に塾を閉じて出村(現在の墨田区)に移り、50歳頃からは各地に旅にでることが多くなった。

越後には、文化6年9月から文化8年7月まで、佐渡にいた期間を含めて約3年間過ごした。その間、越後路を巡り、各地の旧家や文人の招きに応じて多くの作品を残し、良寛をはじめとした越後文人に大きな影響を与えた。

亀田鵬斎(1752-1826)かめだ・ぼうさい
宝暦2年江戸神田生まれ。名ははじめ翼、のちに長興。字は図南、公龍、穉龍。通称は文左衛門。別号に善身堂、太平酔民、金杉老純などがある。井上金峨に折衷学を学んだ。同門に多紀桂山、片倉鶴陵らがいる。安永3年に私塾を開き、のちに小石川諏訪町や神田駿河台などに移転した。安永8年頃から『論語撮解』などの著述を通して、荻生徂徠の古文辞学を反駁した。晩年は下谷金杉に移り住み、酒井抱一、谷文晁、大田南畝、鍬形蕙斎ら多くの文人画人らと交友した。酒をこよなく愛し、詩・書・画に親しんだ。画譜としては『胸中山』を出版。『大学私衡』『中庸辨義』『善身堂一家言』などの著書のほか、多くの序や碑文を残した。文政9年、74歳で死去した。

良寛(1758-1831)りょうかん
宝暦8年出雲崎生まれ。字は曲、名は文孝、大愚と号した。生家は商家橘屋。地蔵堂(旧分水町)の大森子陽の私塾三峰館に学び、22歳で出家、備中玉島円通寺で修行して全国を行脚した。寛政8年頃に帰郷し、国上山の五合庵に住んだ。自然な生き方と万葉風の和歌や書風で知られる。近隣の村々や新潟を訪れ、富農や文人と交流した。また、亀田鵬斎ら各地の文人が良寛を訪ねた。天保2年、75歳で死去した。

館柳湾(1762-1844)たち・りゅうわん
宝暦12年新潟町(現在の新潟市)生まれ。巻菱湖は従弟。名は機、字は枢卿、通称は雄次(二)郎。別号に石香斎、三十六湾漁叟、賞雨老人などがある。廻船問屋小山家に生まれ、幼くして両親を亡くし、父の実家の巻町の館家に入った。10歳の時に江戸に出て亀田鵬斎らに学んだ。寛政5年幕府に入り、文化9年まで勘定奉行配下の役人をつとめた。『柳湾漁唱』『林園月令』などの著書がある。天保15年、83歳で死去した。

館霞舫(1808-1853)たち・かぼう
文化5年生まれ。館柳湾の子。画工にすぐれ、父を継いで幕府役人となったが、弘化3年に辞めて画家として活動した。はじめ清水曲河、岡田閑林に学び、のちに菊池容斎に学んだ。嘉永6年、45歳で死去した。

巻菱湖(1777-1843)まき・りょうこ
安永6年蒲原郡巻町(現在の新潟市)生まれ。父は巻町の茶商「館源」の九代当主・館徳信。館柳湾は従兄。のちに館姓を改めて巻と称した。名は大任、字は致遠、起厳、通称は喜藤太、のちに右内。別号に弘斎がある。幼くして書を新潟善導寺の僧・興雲に習い、寛政7年江戸に出て亀田鵬斎について詩学・書を学んだ。諸国を修業した後、文政5年江戸に塾を開いた。門人には中沢雪城、大竹蒋塘らがいる。市河米庵、貫名海屋とともに「幕末の三筆」と称された。天保14年、67歳で死去した。

富永竹村(1801-1851)とみなが・ちくそん
享和元年頚城郡神田原山(現在の上越市)生まれ。医師・富永兵衛門の長男。名は明、通称は大五郎、のちに春部。父の没後、代々の通称仙八を襲名した。15歳で江戸に出て亀田鵬斎に儒学を学び、中林竹洞に画を学んだ。眼科医のかたわら画を描き、歌人としても知られた。嘉永4年、51歳で死去した。

新潟(05)-画人伝・INDEX

文献:新潟・文人去来-江戸時代の絵画をたのしむ、江戸の文人交友録 亀田鵬斎とその仲間たち、亀田鵬斎の北越来遊に見る越後文人との関わり(現代社会文化研究第73号)、越佐書画名鑑 第2版