江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

江戸中期の越佐画壇を主導した五十嵐浚明

五十嵐浚明「商山四皓・虎渓三笑図」十輪寺蔵

五十嵐浚明(1700-1781)は、新潟町(現在の新潟市)の商家に生まれた。幼いころから画才を発揮し、20代後半までは家業を手伝いながら暇をみつけては画を描いていたが、30歳の時に本格的に画を学ぶため江戸に出て、幕府御用絵師をつとめていた狩野良信に師事した。

江戸に何年間滞在したかは定かではないが、修業を終えて一時帰郷したのち、さらに京都に上って10余年を過ごしている。京都での学問修業は、亡き両親の願いだった「法眼」の位を得るためだったと思われる。

京都では、同じ新潟町出身の竹内式部に朱子学を学び、中国宋の梁楷や張平山の遺墨など多様な絵画に接するなど、諸家に学んで独自の画境を拓き、関西画壇で画名を高めていった。また、池大雅や宇野明霞ら多くの文人と交流した。45歳の時に念願だった法眼の位を得て、帰郷を決意するが、別れを惜しんだ池大雅から「渭城柳色」を描き贈られたことは、二人の親交の深さが知れる逸話として伝わっている。

帰郷してからも京坂の文人たちとの交流は続けたが、新潟を出ることはなく、江戸中期における越佐(越後・佐渡)画壇を主導した。また、宝暦の飢饉の際には、財産や絵を売って人々を救うなど、82歳で没するまで新潟を拠点に地域に根ざした活動をし、多くの後進たちを育成した。長子の顕行、次子の片原、孫の竹沙、北汀ら、子や孫たちも絵画や漢詩に才能を発揮した。

五十嵐浚明(1700-1781)いからし・しゅんめい
元禄13年新潟町(現在の新潟市)生まれ。名は安信、のちに浚明。字は方篤(徳)、別号に孤峰、穆翁、竹軒がある。佐野義直の子として商家にうまれたが、幼いときに両親を失い五十嵐家に育てられた。30歳で画を志して江戸に出て、狩野派の狩野良信に師事し、さらに京都に上り、山崎闇斎や竹内式部について儒学を修め、画は中国宋の梁楷や張平山の遺墨に学んだという。延享元年に新潟に戻り、画工をつとめ、後進の育成にあたった。60歳代は「呉浚明」と名乗ったが、70歳になると五十嵐姓に戻した。安永6年には後桃園天皇の命により作品を献上した。天明元年、82歳で死去した。

竹内式部(1712-1767)たけうち・しきぶ
正徳2年新潟町(現在の新潟市)生まれ。京都で五十嵐浚明に朱子学を教えた。名は敬持、号は羞庵、羞斎。晩年は正庵と称した。医師の家に生まれ、享保13年頃に上京して徳大寺家に仕え、式部と称した。垂加神道をはじめ諸学を修めた。家塾を開いて公家に大義名分論を説き、幕府の専横を抑え、皇室を尊重すべきことを講じた。このため所司代によって宝暦8年に京都を追放された。さらに明和3年には山県大弐らの明和事件に連座して捕らえられ、翌年八丈島へ流される途中、三宅島において56歳で死去した。

五十嵐顧行(1744-1771)いからし・ここう
延享元年新潟町(現在の新潟市)生まれ。五十嵐浚明の長男。字は子謹、伯謹。絵は父によく似て書もうまく、漢詩にも才があり巌田洲尾の「萍躁録」にも所収されているが、早世したため作品はほとんで残っていない。明和8年、28歳で死去した。

五十嵐元誠(1746-1784)いからし・げんせい
延享3年新潟町(現在の新潟市)生まれ。五十嵐浚明の二男。名は元誠、通称は竹次郎、字は仲勉。片原と号した。兄の顧行が28歳で没したため、一時五十嵐家を継いだが、ほどなく弟の元敬に家を譲って独立した。片原堀(現在の東堀通)に居を構えたため、片原と号した。父や岳父の谷等閑斎から画を学んで、一時京都で活動したが、帰郷して病にかかり、天明4年、39歳で死去した。

谷等閑斎(不明-不明)たに・とうかんさい
新潟町(現在の新潟市)生まれ。五十嵐元誠の妻の父。生家は廻船問屋・河内屋。通称は源兵衛。河内屋はもと畿内河内の出で、代々町役人をつとめる家柄だった。画を狩野派に学んだが、寡作だったという。

五十嵐竹沙(1774-1844)いからし・ちくさ
安永3年新潟町(現在の新潟市)生まれ。五十嵐浚明の孫、元誠の子。通称は主膳、字は巨宝。静所、達斎と号した。父に画を学び、のちに江戸に出て多くの文人と交流して画家として活動した。文化6年には越後に向かう亀田鵬斎と信濃を旅し、竹沙画、鵬斎賛の作品を残している。天保15年、71歳で死去した。

五十嵐雪槎(不明-不明)いからし・せっさ
江戸生まれ。五十嵐竹沙の子。名は此宝。父のあとを継いで画を描いたが、晩年は蒲原郡水原町に住み、慶応年間に死去した。

佐野元敬(不明-不明)さの・げんけい
五十嵐浚明の三男。名は元敬、字は子明、季恭。佐野氏を継いだ。父に学んで、詩書画にすぐれていたと伝わっているが、詳細は不明。二人の子がおり、兄は北汀、弟は榕堂。

佐野北汀(1775-不明)さの・ほくてい
安永4年生まれ。五十嵐浚明の孫、元敬の長男。名は其正、字は必大、通称は庄七郎。父の希望で祖父の本姓を名乗った。画ははじめ父に学び、のちに京都で浦上春琴に師事した。また、元・明の絵画から学んだという。詩書にすぐれ、書は呉姓を用いた。江戸、京都を遊歴し、柴野栗山をはじめ多くの文人と交わった。白井華陽に画の手ほどきをしたと伝わっている。

佐野榕堂(不明-不明)さの・ようどう
五十嵐浚明の孫、元敬の二男、北汀の弟。名は其遠、字は子寧、士寧。通称は和七。別号に虚斎がある。呉氏を称した。兄の北汀に学んで、四君子を得意とし、書も巧みだった。晩年は江戸に出て浅草雷門に住んだ。

巌田洲尾(1792-1816)いわた・しゅうび
寛政4年新潟町(現在の新潟市)生まれ。母は五十嵐浚明の娘。名は恕卿、字は忠治、別号に夙夜堂がある。生家は代々廻船問屋を営んでいた。幼いころから学問、画工にすぐれ、画ははじめ佐野榕堂に学び(一説には北汀)、16歳頃から沈南蘋、王叔明ら中国元明清の絵画を写して学んだという。18歳で信州松本の龍田梅斎に学び、のちに江戸で学んだ。文化13年、上京の途中に再度訪れた松本において25歳で死去した。

白井華陽(不明-1836)しらい・かよう
名は広、實。字は子潤、士潤、伯華。初号は華亭。別号に梅泉がある。はじめ佐野北汀に学んだ。家督を弟に譲り、若くして江戸に出て亀田鵬斎に儒学を学んだ。のちに京都で岸駒・岸岱父子に師事して鳥獣画をよくし、特に虎図を得意とした。俳句や禅などにも通じた。天保7年死去した。

芳明(不明-不明)ほうめい
字は子元。五十嵐浚明の弟子として作品を残しているが経歴は不明。浚明の弟として五十嵐芳明と紹介されることもある。

新潟(01)-画人伝・INDEX

文献:生誕320年記念特別展 五十嵐浚明 越後絵画のあけぼの、新潟・文人去来-江戸時代の絵画をたのしむ、越佐の画人、越佐書画名鑑 第2版