江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

未来派美術協会を創設し日本の前衛美術運動の先駆的な役割を果たした普門暁

普門暁「鹿、青春、光り、交叉」

普門暁(1896-1972)は奈良市に生まれ、生後間もなく東京に移った。少年期は東京蔵前高等工業学校で建築意匠を学んでいたが、やがて絵画を志すようになり、同校を中退して川端画学校に入り日本画を学んだ。また、紅児会という研究会をつくって油彩も研究し、伝統にとらわれない自由な表現を模索した。

この頃のイタリアでは、20世紀初頭に詩人のマリネッティが発表した未来派宣言に端を発し、これに呼応した芸術家たちによって未来派と呼ばれる前衛美術運動がおこっていた。これは伝統にとらわれず、近代的な機械が持つスピード感やダイナミズム、躍動的な力など、運動の感覚を惹起させるものを表現すべきとするもので、大正期の日本の芸術家たちにも大きな影響を与えた。

普門も未来派に影響を受けた芸術家の一人で、未来派の理念に沿った音楽的リズムと動的な感覚を色彩と線描で形象化した作品を制作し、太平洋画会展や二科展で発表していたが、大正9年に二科展で落選したことを機に、未来派美術協会を創設し、ロシア未来派展の開催に助力するなど、日本の前衛美術運動の先駆的な活動を展開した。

その後は、病弱だったこともあり目立った活動はできなかったが、演劇舞台美術の指導や個展などの活動とともに、未来派のデザインを産業美術に応用することに傾注し、産業美術研究所を設立するなど日本の産業美術の振興にも尽力し、日本大学で教鞭もとった。

戦後は、東京総合美術研究所を開設し、特殊科学による染色法の研究にも取り組んだが、昭和35年に健康を害して帰郷した。晩年は奈良・当麻寺の奥院をアトリエとし、水墨による抽象画の大作・墨象画の制作に取り組んだ。

普門暁(1896-1972)ふもん・ぎょう
明治29年奈良市生まれ。本名は常一。はやく東京に出て蔵前高工・川端画学校で学んだ。太平洋画会展、二科展に未来派作品を出品したが、大正9年未来派美術協会を創設した。また、自由美術研究所、産業美術研究所を開設するほか、日本大学でも教鞭をとった。戦後は東京総合美術研究所を開設、塗料の開発に腐心した。晩年は奈良に戻り水墨による墨象画に取り組んだ。昭和47年、76歳で死去した。

奈良(17)-画人伝・INDEX

文献:美の新風奈良と洋画、大和風物誌、近代奈良の美術、近代奈良の洋画、描かれえた大和