江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

存命中に遺作展を開催された長崎洋画の先駆者・彭城貞徳

彭城貞徳「和洋合奏図」

長崎出身の明治初期の洋画家としては、まず彭城貞徳(1858-1939)の名があげられる。彭城は、18歳の時に画家を志して上京、高橋由一が主宰する天絵楼に学び、さらに、初の官立美術学校である工部美術学校の第一期生として入学、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージから本格的に油絵の基礎を学んだ。同期には浅井忠、小山正太郎、山本芳翠ら、のちに初期日本洋画史を彩る錚々たる画家たちがいた。しかし、彭城の名が語られるのはこの時代までである。明治26年にはシカゴ万博出品総代として渡米、さらにヨーロッパを歴遊し、フィラデルフィア美術学校にも学んだが、滞欧生活7年の帰国後は、中央画壇と離れ、展覧会などに出品することもほとんどなく、晩年には筆を折ったまま生涯を終えた。

美術業界から遠ざかりすぎたためか、存命中でありながら遺作展が開催されたことがある。昭和7年、銀座の画廊で開催された「榊貞徳画伯遺作展」に出品されていたのは、彭城貞徳の作品だったのだが、作品を売りにきた外国人が言う「サカキテイトク」という画家の名前を画廊主が知らず、榊貞徳と誤って表記したものだった。さらに、その外国人が「画家はとっくに死んでいる」と言ったため、遺作展となった。2年後、彭城本人が画廊に現れ、その作品が自分のものだと告げて発覚したという。

手記などで伝わる彭城の活動範囲は広く、多彩な才能を持ち、絵画だけでなく音楽や踊りなどにも通じていたことが分かる。にこやかに笑う人物画や、猫が三味線をひくユーモラスな作品を手掛けるなど、サービス精神も旺盛だが、その反面、集合写真に参加しないなどの協調性のなさも垣間見える。長崎では近隣の者たちに絵を教え、求めに応じて絵を描いていたが、活動は絵画だけにとどまらず、政治家を志し、商売人の道へと進むことになった。画家を志して上京し、工部美術学校一期生というエリートコースを歩みはじめたはずが、やがて中央画壇から忘れ去られ、晩年には存命中に遺作展を開催されることとなってしまったのである。

彭城貞徳「富士山之図」

彭城貞徳(1858-1939)さかき・ていとく
安政5年長崎市生まれ。家業は代々続く唐通事。幼いころから彭城家第10代唐通事になるべく英才教育を受けたが、明治維新とともに唐通事の役目が終わった。13歳の頃に長崎広運館でフランス語を学び、同時期に通っていた西園寺公望と交友を持った。15歳の時、京都のフランス語学校で、教師が所蔵していた油彩で描かれたナポレオン三世の肖像画をみて、その迫真性に驚き、洋画家を志すようになった。明治8年、18歳の時に上京、高橋由一が主宰する天絵楼に入門し、油絵を学び始めた。さらに明治9年に日本初の官立美術学校である工部美術学校が創設されると第一期生として入学、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージから本格的に油絵の基礎を学んだ。同期には、浅井忠、小山正太郎、山本芳翠らがいた。21歳の時、フォンタネージが帰国したのをきっかけに同校を退学、石版会社・玄々堂に就職した。明治17年長崎に帰り、市会議員や絵画教師など様々な職に就いた。明治26年にはシカゴ万国博覧会出品総代として渡米、さらにヨーロッパを歴遊し、明治33年に帰国、神戸で外国人向けの作品を描いた。明治36年に長崎に帰り洋画塾などを開いたが、大正4年病のため筆を折り、上京して海産物問屋を営んだ。昭和14年、82歳で死去した。

長崎(18)-画人伝・INDEX

文献:生誕150年記念 彭城貞徳展、長崎の肖像 長崎派の美術家列伝