来舶四大家のひとり江稼圃は、文化元年から6年頃まで来日し、弟の江芸閣とともに長崎の南画興隆の基礎をつくった。さらに続いて来日した徐雨亭、王克三らによって長崎の南画は一段と本格的なものになっていった。幕末の長崎三画人と称された、鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も江稼圃に学んでいる。江稼圃の来日前は、鉄翁祖門と木下逸雲は石崎融思に、三浦梧門は渡辺鶴洲にそれぞれ漢画の画法を学んだが、江稼圃の渡来後は彼について南画を学び、これを大成した。南画は全国に広まり、池大雅、与謝蕪村、田能村竹田、谷文晁らが活躍、江戸後期の日本画壇に主要な地位を占めた。
鉄翁祖門(1791-1872)てつおう・そもん
寛政3年長崎市銀屋町生まれ。俗姓は日高。鉄翁の号は30歳代半ばから用いた。文政3年から春徳寺の第14代住持をつとめ、嘉永3年に退隠した。はじめは石崎融思に師事したが飽きたらず、28歳の頃に来日した江稼圃について南画の画法を習得、特に退隠後は画禅三昧にひたり、蘭図を得意とし、蘭の鉄翁と称された。田能村竹田らとも交友し、多くの門人を育てた。明治4年、81歳で死去した。
木下逸雲(1799-1866)きのした・いつうん
寛政11年長崎市八幡町生まれ。通称は志賀之助、名は相宰、諱は隆賢。別号に養竹山人、如螺山人、物々子などがある。18歳で八幡町乙名をつとめ、文政12年退役。本業は内科外科を兼ねる医者だった。亀山焼の発展に寄与し、日中文化交流の長崎丸山花月楼清譚会の世話人もつとめた。画法は、鉄翁と同じく最初は石崎融思に学び、のちに最も影響を受けた江稼圃について南画を学び、鉄翁とともに幕末長崎南画界の大御所的存在となった。
天保3年に建てられた諏訪神社の能舞台には、大和絵風に松の絵を描くなど、広く画法を学び、西洋画にも関心を寄せた。篆刻も巧みで、鉄翁にも印を贈っている。慶応2年、江戸に遊び、横浜から長崎への帰路、海上で遭難し、68歳で死去した。
三浦梧門(1808-1860)みうら・ごもん
文化5年生まれ。本興善町乙名三浦惣之丞の長男。通称は惣助、諱は惟純。別号に秋声、荷梁、香雨などがある。邸内に植えていた梧桐のなめらかな美しさを愛し、梧門と号したという。長崎本興善町乙名や長崎会所目付役などをつとめた。渡辺鶴洲や石崎融思に画法を学び、さらに中国の名画を独学で研究し、南画の大家と称された。土佐派の画や肖像画も得意とした。万延元年、53歳で死去した。
長崎(15)-画人伝・INDEX