18世紀の後半から19世紀の中頃になると、渡来の途絶えた黄檗僧に代わって清人が盛んに渡来するようになった。彼ら来舶清人によって南画の画風が伝えられると、長崎の画家のみならず、各地の文人たちに注目され、空前の中国ブームが出現した。江戸時代に長崎にやってきた清の画家のうち、伊孚九、張秋谷、費漢源、江稼圃は、来舶四大家と称され、なかでも何度も来日した伊孚九は、日本の文人たちと交流し、その詩書や南画の教養は、池大雅や田能村竹田らの南画家に大きな影響を与えた。
伊孚九(1698-1747?)い・ふきゅう
中国呉興の人。名は海、字は孚九、莘野、莘野耕夫と号した。別号に匯川、也堂、雲水伊人、養竹軒などがある。本業は船主。享保5年から延享末頃にかけて来航した。延享4年8月付の『伊孚九書上船員名簿』には「船主伊孚九年五十歳」とあり、生年は康熙37年だと推測され、最初の来舶時は23歳だったと思われる。
張秋谷(不明-不明)ちょう・しゅうこく
中国仁和の人。名は崑、字は秋谷。幼いころから画を好み、天明年間に来日。帰国後は名を莘、字を秋穀と改め、倪雲林の山水、呉鎮の蘭竹を手本とした。来舶四大家の中では、中国で最も名の通った画人であり、椿椿山や渡辺崋山らに大きな影響を与えた。天明8年に長崎遊学した春木南湖は、唐大通事清河栄左衛門の紹介で弟子となった。南湖の手記『西遊日簿』によると、秋谷は背が高く痩せ型で、静かな人物だったという。
費漢源(不明-不明)ひ・かんげん
中国茗渓の人。名は瀾、字は漢源、浩然と号した。宝暦6年頃までの間に数回来舶したとみられる。南京船主としての最初の来舶は、元文2年とされるが、嘉永4年刊行の『続長崎画人伝』や寛政2年刊行の『玉洲画趣』などでは、享保19年に初めて来舶したとされている。初来日は、信牌目録に名をとどめないような立場で来航したのかもしれない。長崎では建部凌岱、楊利藤太などに画法を授けた。
江稼圃(不明-不明)こう・かほ
中国臨安の人。名は泰交、字は大来、連山。張栄蒼らに書や画法を学んだ。文化元年から6年まで財副として来舶し、以後数回来舶が記録されている。長崎三画人と称される鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門らが画法を学んでおり、長崎南画の発展に貢献した。長崎遊学した菅井梅関に南画を教えた。梅関の号は江稼圃より梅の図を贈られたことに由来する。
長崎(14)-画人伝・INDEX
文献:九州南画の世界展