キリスト教の禁止令とともに、西洋画もその弾圧の対象とされ、さまざまな制約が加えられるようになった。唯一の開港地だった長崎では、西洋や中国の文化が流入する得意な環境のもと、オランダ人やオランダ船などの西洋の風俗が描かれていたが、それは従来の日本画の手法によるものだった。これに対し、蘭学の流行とともに西洋の絵画を理論的に研究し制作しようとする気運が高まり、江戸では司馬江漢や亜欧堂田善らによって洋風画が描かれるようになった。
長崎で洋風画が本格的になるのは、江戸より遅れて、寛政年間の若杉五十八(1759-1805)が初めであり、ついで文化年間の荒木如元(1765-1824)がそれを完成させた。五十八と如元の作品は、その多くがカンヴァス地に油彩で描いた本格的なもので、ときには輸入の油絵具を使うこともあった。彼らは、同時代の秋田や江戸の洋風画家たちがなしえなかった本場の洋画技法を用いていたが、西洋原画の模写と構成に終始し、題材や手法も洋画に酷似していることから、独自性に欠けていたともいえる。
若杉五十八(1759-1805)わかすぎ・いそはち
宝暦9年長崎生まれ。父は左斎といい鍼療を営む盲人だった。母は久留米藩用達の井上政右衛門の妹。師承関係は判明していないが、直接オランダ人に画法を学んだともいわれ、麻布油彩の本格的な西洋風俗画を描いた。唐絵目利の画家たちと違い、在野の画家だったため、画業を明らかにする資料は、遺作以外ほとんど残っていない。明和8年、その前年に従兄の若杉敬十郎が没したため、その後を受けて長崎会所請払役並となり、安永9年には、敬十郎の実子登兵衛が成人したのでこれに職を譲り、さらに会所請払役の久米豊三郎の養子となって再び会所請払役見習となり、のち寛政6年養父豊三郎の隠退とともに請払役に昇進した。文化2年、47歳で死去した。
荒木如元(1765-1824)あらき・じょげん
明和2年生まれ。通称は善十郎、のちに善四郎、字は直忠。もと一瀬氏。唐絵目利の荒木元融に絵を学び、養子となって元融の跡を継いだが、短期間で辞職し再び一瀬氏に戻った。洋風画は、その表現から長崎系洋風画の先駆者・若杉五十八に洋画法を学んだと思われる。長崎系の中でも最も西洋画に近い作品を残した。文政7年、60歳で死去した。
皐錦春(不明-不明)さつき・きんしゅん
「洋人散歩図」の「文政己丑夏六月 西肥皐錦春写Kinsiun」という款記から「皐錦春」とされるが、ほかにこの作者を知る手がかりはない。
長崎(11)-画人伝・INDEX
文献:肥前の近世絵画、長崎絵画全史、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、百花繚乱の世界-江戸・化政期の絵画-