江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

唐絵目利石崎家初代・石崎元徳らを輩出した小原慶山の画系

小原慶山「雪中梅図」

初期の長崎画壇に大きな影響をあたえた小原慶山(不明-1733)は、丹波に生まれ、京都を経て江戸に出て狩野洞雲に学んだ。その後、長崎に移り住み河村若芝に師事した。作品には雪舟派や狩野派の筆致がみられ、唐絵風の作品も残っている。花卉禽類の描写に長け、人物なども巧みで、黄檗僧の肖像などには喜多元規の影響がみられる。墨梅や墨龍なども得意とし、沈南蘋が長崎に渡来してきた際には、墨龍を送ったとされる。門人に石崎元徳がおり、それからつながる荒木元融、石崎融思の長崎におけるひとつの重要な画系の祖となった。

小原慶山(不明-1733)
丹波生まれ。名は雅俊、字は霞光。別号に渓山、景山などがある。京都に出て、その後江戸で狩野洞雲の門に入った。さらに長崎に移り住んで漢画の法を河村若芝に学んだ。花卉人物山水すべてすぐれていた。唐絵目利兼御用絵師をつとめたともされるが定かではない。門人に唐絵目利石崎家初代となる石崎元徳らがいる。享保18年死去した。

小原巴山(1693-1777)
元禄6年生まれ。小原慶山の子。通称は勘八、名は克紹、字は子緒。別号に敬斎、敬修斎などがある。儒学を向井元成に、画を父慶山に学んだ。好んで墨画の龍を描いた。安永6年、85歳で死去した。

小原才蔵(不明-不明)
石崎元章の三男、小原巴山の養子となり、書物改手伝役をつとめた。

小原東洋(不明-1781)
通称は一左衛門、名は玄溟。のちに野口姓となり、野口市左衛門と称した。天明元年死去した。

石崎元徳(1693-1770)
元禄10年生まれ。通称は清次右衛門、字は慶甫。館を香雪斎といい、別号に香雪斎がある。はじめ西崎氏でのちに石崎氏と称した。父は西崎威山。幼いころから画を好み、古人の筆蹟を研究し、のちに小原慶山に師事した。特に仏像を得意とした。享保9年、上杉九郎次の後を継いで、唐絵目利手伝となり、元文元年唐絵目利本役になり御用絵師を兼ねた。宝暦7年、65歳の時に病のため役を辞した。明和7年、78歳で死去した。

石崎元章(1731-1778)
通称は文十郎、字は士朴、『長崎画人伝』には石崎元徳の養子とある。宝暦3年唐絵目利見習となり、宝暦9年唐、24歳の時に唐絵目利兼御用絵師となった。幼いころから画を得意とし、養父元徳の教えを受けた。安永7年、48歳で死去した。

石崎元甫(1768-不明)
通称は周蔵、石崎元章の子。唐絵目利仲間に入ったのは、父の生存中であったか、その病没後であったかは定かではない。若くして没したため、その後を石崎融思が継いだ。

元鎮(不明-不明)
通称は喜八。銀屋町の住んでいた。石崎元徳に師事した。

篠島元琪(不明-不明)
通称は伝吉。石崎元徳に師事した。多くの門人の中でも冠たりと称された。家貧にして、妻子なく、本鍛冶屋町に住んでいた。

安田元志(不明-1792)
通称は新蔵、のちに嘉右衛門。素亭と号した。長崎画人伝には安田元糸とある。石崎元徳に師事し、特に肖像画を得意とした。寛政4年死去した。

安田素教(不明-不明)
安田元志の子か弟、あるいはその一族。

井手定賢(1789-1799)
寛政元年生まれ。通称は茂七郎、字は承慶。鶴翁と号した。石崎元徳に師事した。寛政11年、11歳で死去した。

松井慶徳(1721-1782)
享保6年生まれ。通称は潤助、または順助、字は元仲、さらに慶徳と改めた。広山と号した。石崎元徳に師事した。天明2年、62歳で死去した。

松井元仲(1752-1813)
松井慶徳の子。通称は代蔵、字は元仲。霞山と号した。文化10年死去した。

松井慶仲(1781-1819)
天明元年生まれ。松井元仲の子。通称は甚八郎。硯山と号した。文政2年、39歳で死去した。

荒木元融(1728-1794)
享保13年生まれ。通称は為之進、字は士長。円山と号した。居は鶴鳴堂、薜蘿館などと称した。石崎元徳に師事して画法を学び、蛮画の法をオランダ人に受けたとされる。幼くして経学を真宗の僧教戒に学び、さらに詩文を長崎の渡辺暘谷について修めた。明和3年、荒木元慶の跡を継ぎ唐絵目利兼御用絵師となった。寛政6年、67歳で死去した。

長崎(8)-画人伝・INDEX

文献:唐絵目利と同門、長崎絵画全史