江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

長崎唐絵の奇才・河村若芝とその画系

河村若芝「群仙星祭図」

渡辺鶴洲と並び、逸然性融門下の双璧と謳われた河村若芝(1630-1707)は、師の奇狂な造形美をさらに増幅させた画風で、長崎唐絵の代表的な奇才と称されている。若芝は、肥前佐賀の豪族の出身で、故あって長崎に隠遁したと伝えられ、長崎では黄檗僧と交友し、画を逸然性融に学び、喜多元規の画風も参考にしたとみられる。また、木庵から腐食象嵌法を学び、鍔細工にもすぐれ、若芝を継ぐものとしては画系と鍔細の二系統があった。作域は道釈人物を主体とするが、山水や花鳥も散見され、なかには伊藤若冲を先取りしたような、不思議な石灯篭図も近年発見されている。その画系は、弟子の若芝一山、上野若元、子の山本若麟、芦塚若鳳、さらに若麟の子・牛島若融、上野若瑞へと続いた。上野若瑞の子・上野彦馬は、日本初のプロカメラマンとして活躍した。

河村若芝(1630-1707)
寛永7年生まれ。僧名は蘭溪若芝。俗称は河村。名は喜左衛門または道光、風狂子、烟霞比丘、烟霞道人、烟霞野衲、烟霞野僧、紫陽山人、普聲などがある。煙霞比丘(逸然から踏襲)、風狂人、散逸道人などと号し、僧名を蘭溪道光といった。佐賀の豪族の出身で、故あって長崎に隠遁したと伝えられ、一時は鍋島本藩に絵師として迎えられたという。画は中国から渡来した黄檗僧・逸然性融に学び、また喜多元規の画風もならって一家をなした。また、木庵から腐食象眼の技術を学び、若芝鍔細工の祖となった。宝永4年、70歳で死去した。

若芝一山(不明-1726)
別峰一山とも称した。河村若芝に画法および鍔細工法を学び、若芝の称を継いだ。享保11年死去した。

上野若元(1668-1744)
寛文8年生まれ。本姓は小川、上野家に養子に入った。河村若元とも称した。諱は道英、名は道昌、道英。別号に痴翁、篁洲、梅久軒、華山などがある。長崎の人で、画は河村若芝に学び、河村姓を名乗った。元禄年間、鍋島綱茂に絵師として抱えられたが、のちに長崎に帰った。延享元年、77歳で死去した。

山本若麟(1721-1801)
享保6年生まれ。上野若元の長子。幼名は丹宮、長じて長次郎、名は長昭。別号に瑞翁、温故斎、魯石などがある。画は父の若元に学び、山水、花鳥、獣、人物などをよくし、特に虎図を得意とした。享和元年、81歳で死去した。

芦塚若鳳(1723-1780)
享保8年生まれ。山本若麟の弟。通称は勇七、または勇七郎、名は英祥、字は文徳。別号に梧亭、蘆囿などがある。安永9年、58歳で死去した。

牛島若融(1754-1817)
宝暦4年生まれ。山本若麟の子。通称は甚左衛門、字は叔和、居を方壺斎と称した。父に画法を学び、花鳥人物を得意とした。文化14年、64歳で死去した。

上野若瑞(1758-1827)
宝暦8年生まれ。山本若麟の子。牛島若融の弟。通称は泰輔、諱は長英、字は稻光。父に画法を学び、花鳥人物をよくし、肖像画も得意とした。文政10年、71歳で死去した。

上野若龍(1790-1851)
寛政2年生まれ。通称は俊之丞、諱は常足。居を停車園と称した。上野若瑞の子。写真家の上野彦馬の父。文政5年に長崎の御用時計師の家柄である幸野家を継いだが、天保10年に上野姓にもどった。舎密学に造詣が深く、オランダで発明されたダゲレオタイプの写真機材をいち早く輸入したことで知られる。天保年間、中島に精錬所を設立し塩硝を製造していた。画は父の若瑞と叔父の若融に学び、花鳥人物などを描いた。嘉永4年、62歳で死去した。

長崎(7)-画人伝・INDEX

文献:肥前の近世絵画、長崎絵画全史、隠元禅師と黄檗宗の絵画展