江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

続長崎画人伝を記した鶴洲の高弟・荒木千洲とその画系

荒木千洲「武内宿弥図」

長崎画人伝によって唐絵目利の画系を後世に残す渡辺鶴洲の仕事は、その高弟である荒木千洲(1807-1876)によって引き継がれた。千洲が編纂した続長崎画人伝では、師の鶴洲およびその系統に属する人々、荒木元融系の人々、南宗画家の鉄翁、逸雲、梧門の系統に属する人々らの略歴がまとめられた。さらに、その仕事は千洲の甥で門人の熊本峻斎(1820-1890)によって引き継がれ、叔父の千洲ならびにその門人の略歴が加えられ、峻斎自ら後書きを記した。

千洲は別の甥・盛之助を養子としていたが、盛之助は唐絵目利の広渡氏の株を引き受けて広渡と称し、そのうえ早世したため、千洲に相続者はいなかった。そのため、門人である長沢春卿(1838-1902)が奔走し、荒木氏一族が協議し、野口豊十郎が荒木家を継ぐことになり、荒木豊十郎と称した。千洲の遺品である鶴洲直筆の長崎画人伝、千洲の遺稿続長崎画人伝は野口家所有となった。

荒木千洲(1807-1876)
文化4年生まれ。町年寄久松氏の家来・萩尾順右衛門の子。通称は千十郎、諱は宗彜、名は一、字は世万。別号に春潭がある。居を従宜堂と称し、これによって従宜堂主人、従宜主人とも称した。唐絵目利荒木氏の株を譲り受け、荒木の名跡を継いだ。幼いころから画を好み、若くして渡辺鶴洲に師事し、特に肖像画を得意とした。文政9年唐絵目利となり、長崎奉行内藤安房守の命により、続長崎画人伝を編纂して奉呈した。安政元年、唐絵目利頭取に命じられた。明治9年、70歳で死去した。

熊本峻斎(1820-1890)
文政3年生まれ。本姓は小林氏。小林百治郎の長男。通称は陽蔵、諱は宗孝。唐土風の名は熊秀といった。居は成美書屋と称した。熊本陽平の後を継いで書物目利とつとめた。明治に入り、長崎製鉄所に奉職し、さらに長崎県庁につとめた。文政10年に叔父の荒木千洲に師事し、以後25年間絶えずその指導を受け、千洲没後は元明清の諸大家を研究した。明治23年、71歳で死去した。

長沢春卿(1838-1902)
天保9年生まれ。もと田中氏で、長沢氏の名跡を継いだ。通称は房次郎、または謙騰。落款には起雲従輝とある。荒木千洲に師事した。明治35年、65歳で死去した。

平野秋声(不明-不明)
通称は与市、諱は武実。荒木千洲の実弟。画法を兄に学んだ。

石崎桂洲(不明-不明)
通称は慎三郎、諱は良清。荒木千洲に師事した。

山本春濤(1829-1890)
文政12年生まれ。通称は初め此二郎、のちに賢三、諱は保之、のちに保英。維新前反物目利の役を勤めた。荒木千洲に師事した。明治23年、62歳で死去した。

山村春耕(不明-1862)
通称は免馬治、諱は雅朝、字は子旭。荒木千洲に師事した。文久2年死去した。

大宮荷江(1833-1871)
天保4年生まれ。通称は友太郎、字は士貞。長崎市中相対買商人仲間の一人。絵事を好み、荒木千洲に師事した。明治4年、39歳で死去した。

鈴木棠皐(不明-不明)
通称は佐野吉、諱は礼行、字は九囲。長崎会所につとめていた。荒木千洲に師事した。

今井佳相(不明-不明)
通称は政治郎、字は貴本、翰香と号した。荒木千洲に師事した。

吉田雨香(不明-不明)
通称は久之助、諱は善実。荒木千洲に師事した。

佐藤柳村(不明-不明)
通称は豊吉、諱は直温、字は子玉。荒木千洲に師事した。

石崎蓼洲(1842-1877)
天保13年生まれ。砲術家・中島名左衛門の子。通称は麒一郎、諱は喜起、字は伯煕。家庭の都合で一時唐絵目利の石崎氏の株を引き受け、荒木千洲に画法を学び、唐絵目利となった。のちに本姓の中島に戻した。明治10年、36歳で死去した。

長崎(6)-画人伝・INDEX

文献:唐絵目利と同門