江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

長崎画人伝を著した唐絵目利渡辺家七代・渡辺鶴洲

渡辺鶴州「一品朝天図」

唐絵目利渡辺家7代を継いだ渡辺鶴洲(1778-1830)は、長崎画人伝の著者としても知られる。長崎画人伝は、一度途絶えたような形となった渡辺家を継いだ鶴洲が、唐絵目利の中での渡辺家の存在の挽回をはかるために代々の唐絵目利について書き残したもので、唐絵目利研究の重要な資料となっている。その遺稿は高弟の荒木千洲に伝わり、嘉永年間、朝岡三次郎が千洲よりその写しを得て、これをその名著古画備考に収めた。鶴洲自筆の長崎画人伝遺稿は、千洲没後、その親族野口家に残り、一時は玉園文庫の所蔵となっていたが、現在では所蔵不明となっている。

渡辺鶴洲「象と黒坊図」市河寛斎賛

渡辺鶴洲(秀実)(1778-1830)
安永7年生まれ。渡辺秀詮の子。通称は常次、字は元成、号は鶴洲、または鶴洲道人。邸を親文堂、居易堂などと称し、親文堂主人、親文主人、居易堂主人、居易主人とも号した。幼くして父秀詮に画法を学び、また真村蘆江に師事して、南蘋風および方西園風の画法を修めた。享和2年、25歳の時に父の跡を継いで唐絵目利になり、同時に渡辺家7代の家督を継いだ。長崎画人伝の著者として知られる。文政13年、53歳で死去した。

渡辺秀乾(1809-1829)
文化6年生まれ。渡辺鶴洲の嫡子。通称は乾、名は秀乾、字は元巽。黿洲と号した。父鶴洲の指導を受け、宋元明清諸大家の作品を臨模した。また渡辺家伝来の画風以外、沈南蘋、費漢源、方西園など来舶の諸大家の筆致にも十分意を留め、特に南蘋流の花鳥を得意とした。文政12年、21歳で死去した。

渡辺秀彰(1821-1870)
文政4年生まれ。鮫目利頭取富田惣太夫の子で渡辺家の養子になった。通称は清次郎、字は元史、あるいは元施。晴洲と号した。鶴洲の門人村田鶴皐に画法を学び、鶴洲の後を継いで唐絵目利になった。明治3年、50歳で死去した。

長崎(5)-画人伝・INDEX

文献:唐絵目利と同門