17世紀中頃、黄檗宗の僧・隠元隆琦が渡来し、我が国に黄檗宗を伝えると、木庵性稲や即非如一、独立性易ら黄檗僧が続々と渡来し、長崎は黄檗文化の一大中心地となった。中国黄檗僧の渡来によって盛んになった黄檗宗は、頂相として祖師の肖像画を必要とした。その肖像画法を中国から伝えたのは、正保元年長崎に渡来して興福寺第3代住職となった逸然性融である。
黄檗肖像法は、喜多氏の画系によって引き継がれ、その中心的な存在が喜多元規(不明-不明)である。元規は、承応から元禄までの約50年間に、黄檗僧はもちろん在家や他宗の僧に至るまでの肖像画を多く描いた。その画風は、顔貌や着衣に濃淡による陰影をほどこし、油彩画的ともいえる彩色法を用い、肖像の迫真性を強くあらわしており、中国と西洋の折衷画法ともいえる。この画法は、後の18、9世紀における長崎の洋風画につながるものだった。
喜多元規(不明-不明)
17世紀後半の寛文・元禄年間に活躍した黄檗肖像画の第一人者。一説には喜多宗雲を父か師とする。また薩摩藩士で鉄牛門人説もある。中国、ヨーロッパ画法の折衷による陰影法を用い、写実主義の迫真的肖像画を多く描いた。代表作に重要文化財の宇治萬福寺所蔵「隠元和尚像」をはじめ、長崎の四福寺に隠元、独湛、悦峯像、福済寺に木庵、慈岳像、崇福寺に隠元倚騎獅像、即非、千呆像、聖福寺に隠元、木庵、鉄心像が伝わっている。その画像は他宗派から全国各階層に及び、中国移入のモダンな黄檗肖像画を完成させた。江戸に住んでいたとみられる晩年作として、東京・弘福寺所蔵の稲葉泰応居士像が知られている。元規の画系には、元喬、元香、元眞、元珍、元貞らがいる。
喜多宗雲(不明-不明)
喜多氏一家の者に違いないが、略歴は分からない。肖像画に長けていた。名古屋東輪寺に「隠元禅師獅子図」、長崎崇福寺に「隠元禅師騎獅子図」が残っている。肖像画としては道者、隠元、木庵、即非ら比較的初期の来朝黄檗僧にとどまり、寛文以後の作品は見当たらない。
長崎(2)-画人伝・INDEX
文献:長崎の美術-300年展、長崎絵画全史