江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

創作版画の草創期に生き21歳で没した香山小鳥

香山小鳥「深川の冬」(習作)

長野県下伊那郡松尾村(現在の飯田市松尾)に生まれた香山小鳥(1892-1913)は、飯田中学校(現在の飯田小学校)卒業後に上京、家族も後に上京し、そろって深川に住んだ。

明治45年4月、20歳で東京美術学校予備科彫刻科彫像部に入学、家族のもとを離れて下谷区上野花園町に住んだ。同校に通いながら、すでに人気画家だった竹久夢二と交流し、同じく夢二のもとに集まっていた美術学校の学生だった恩地孝四郎、田中恭吉、土岡泉らとも交友した。

特に田中恭吉(1892-1915)とは急速に親交を深め、田中の影響を受けて、美術学校の同人短歌会「鴨跖草會」に出席したり、詩画集「お前は何處から」を制作したりしていたが、7月には美術学校を退学してしまう。

その後は雑誌「歓楽」に詩や絵を掲載していたが、10月、木版彫師の伊上凡骨(1875-1933)に弟子入りし、神田の凡骨宅に住み込んで彫師の修行をするかたわら、自画自刻の木版画の制作を始めた。

翌年1月には、木版画制作の魅力に取りつかれたとの手紙を恩地孝四郎に送り、その制作熱を伝えていたが、3月に結核を発病、3カ月後に21歳4ケ月で死去した。

香山の影響を強く受けて木版画に進んだ田中恭吉は、恩地孝四郎らと創刊した「月映」の誌上で、香山について「彼が私の生活の上に投げかけた陰翳はかなり濃いものだった。木版画に於ては殊に深い縁があった」とその死を惜しんだが、田中もまた結核のため、23歳の短い生涯を閉じることになる。

香山小鳥(1892-1913)かやま・ことり
明治25年下伊那郡松尾村(現在の飯田市松尾)生まれ。本名は藤禄。明治44年長野県飯田中学校(現在の飯田小学校)在学中に図画・習字教師の岩井才太郎より洋画を学び、同校卒業後に上京、明治45年東京美術学校予科に入学したが、同年中退し、木版彫師の伊上凡骨のもとで木版画の勉強を始めた。竹久夢二、恩地孝四郎、田中恭吉ら親しく交友した。回覧雑誌「密室」をはじめ葉書などに版画が残されている。同郷の日夏耿之介は「仮面」2-8に香山との交遊を書き残している。大正2年、21歳で死去した。

田中恭吉(1892-1915)たなか・きょうきち
明治25年和歌山市生まれ。明治43年県立徳義中学校を卒業後上京、白馬会原町洋画研究所で学び、翌年東京美術学校日本画科に入学した。在学中に、白馬会時代の仲間と回覧雑誌「ホクト」を創刊。大正元年の第1回ヒュウザン会展には「未知草」の名で出品している。大正2年頃大槻憲二、藤森静雄らと回覧雑誌「密室」を発行。この頃から香山小鳥の影響で版画を始め「密室」に成果を発表するが、同年喀血。大正3年には恩地孝四郎、藤森静雄らと版画雑誌「月映」を創刊するが、病のため帰郷。大正4年、23歳で死去した。田中の死後、萩原朔太郎の第一詩集「月に吠える」の装丁を引き受けた恩地孝四郎は、田中の遺作を挿画として掲載して装丁を完成させた。

伊上凡骨(1875-1933)いがみ・ぼんこつ
明治8年徳島市生まれ。本名は純蔵。明治24年上京して木版彫師の大倉半兵衛に師事。鉛筆や筆の線のかすれを表現する「サビ彫」を得意とした。画家の下絵を木版複製する彫師だったが、水彩画や素描のタッチを木版画で表現しようとした。「明星」「光風」などの雑誌や単行本の表紙や挿画、「日本風景版画」全10集、石井柏亭の「東京十二景」などを担当した。岸田劉生の雑誌表紙や装幀図案を木版におこした。平塚運一も一時期凡骨に弟子入りしている。昭和8年、57歳で死去した。

長野(70)-画人伝・INDEX

文献:郷土美術全集(飯田・下伊那)〔後編〕