神津港人(1889-1978)は、北佐久郡志賀村(現在の佐久市)に生まれた。16歳の時に、小諸義塾を開いていた丸山晩霞のもとで半年間指導を受け、その後上京して東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝、藤島武二、和田英作らに学んだ。
同校卒業後は、帝国劇場の背景部員となったが、そのかたわら光風会展や東京勧業展覧会に出品した。大正4年には美術学校時代の同期生11人と「銀(しろがね)会」を結成し、第1回展を開催。同年第9回文展に初入選し、その後も文展、帝展に出品した。
大正8年、30歳の時に美術学校同期生と四十年社を結成し、大正15年まで出品した。この四十年社がのちに結成される第一美術協会の母体となる。大正9年、農商務省の商業美術研究生として渡英。ロイヤル・アカデミー・スクールに学び、翌年はパリのアカデミー・ジュリアンに学んだ。欧州各地を写生旅行して大正11年に帰国。同年第4回帝展に「凩(こがらし)」が入選した。
昭和3年、美術学校同期の彫刻家・斎藤素巌が官展に反発して創設した彫刻部だけの在野美術団体「構造社」に加わり絵画部を設立、官展を離れた。しかし、昭和10年の帝展松田改組に際して、素巌と意見が合わずに脱退、構造社絵画部は解散となった。
昭和14年、緑巷会を創立し、この年から毎年、東京市美術館で春に公募展を開催し、秋には銀座で緑巷会小品展を開催した。昭和25年、緑巷会を発展解消して創芸協会を創立、昭和32年に第一美術協会と合流した。
第一美術協会は、神津らが美術学校同期生と結成した四十年社が解散した後に、その仲間たちが美術学校先輩の青山熊治を中心に昭和4年に創立したもので、神津は同会の副委員長に就任し、重鎮として会の発展に寄与した。
神津港人(1889-1978)こうづ・こうじん
明治22年北佐久郡志賀村(現在の佐久市)生まれ。明治35年県立野沢中学校に入学、在学中は休日を利用して丸山晩霞に絵を習った。明治40年東京美術学校西洋画科に入学。明治45年の同校卒業後は帝国劇場背景部員になった。同年第1回光風会展入選。翌年第3回東京勧業展覧会で3等首席。大正4年第9回文展初入選。同年銀会結成。大正8年四十年社結成。大正9年信濃美術協会の創立に参加。同年農商務省の商業美術研究生として渡英。ロイヤル・アカデミー・スクールに学び、翌年はパリのアカデミー・ジュリアンに学んだ。大正11年帰国。官展のほか太平洋画会展、四十社展にも出品した。昭和3年官展を離れ、構造社に加わり絵画部を創設したが、昭和10年帝展松田改組に際して盟友と意見が合わずに構造社を退会。昭和14年緑巷会を創立主宰。戦後はこれを創芸協会と改称し公募展を続けたが、昭和32年第一美術協会に合併、副委員長に就任した。昭和41年には日本山林美術協会にも参加した。昭和53年、89歳で死去した。
長野(66)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第6巻、信州の美術、郷土作家秀作展(信濃美術館) 、長野県信濃美術館所蔵品目録 1990、長野県美術大事典、美のふるさと 信州近代美術家たちの物語