江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

雑誌「明星」の表紙画で絶大な人気を博した一條成美

一條成美「百合を持った裸婦像」(明星表紙画)

一條成美(1877-1910)は、東筑摩郡神林村(現在の松本市神林)に生まれた。生家は資産家だったが、父の放蕩のために財産を失い、幼少の頃に北信濃の篠井に移住した。その後、松本中学に入学するが、1、2年ほどで退学している。

絵は独学で学んだと思われるが、菊池容斎に私淑、あるいは渡辺省亭に師事したともされる。画家としてのデビューは早く、明治26年に少年雑誌「小国民」の表紙図案募集に応募して当選、翌明治27年の「小国民」第6年1号から12号までの表紙を担当している。

明治30年から長野県土木課製図係に勤務したが、明治33年頃に上京、麹町の与謝野鉄幹宅に住み込み、鉄幹主宰の文芸雑誌「明星」の表紙や挿絵を担当した。

明治33年に創刊された「明星」は、最初は新聞判だったが、第6号から四六倍判の雑誌スタイルとなり、西洋画の紹介など美術的にも充実するようになった。その「明星」6号の表紙を飾ったのが、成美の「百合を持った裸婦像」だった。

成美の描いた裸婦は、日本画と洋風画を折衷したようなアールヌーボー調の雰囲気が漂い、絶大な人気を博した。しかし、「明星」8号に挿絵として掲載された成美の描いた裸婦が、当局の風俗壊乱のかどで発売禁止処分を受け、その後「文壇照魔鏡」などの鉄幹を誹謗中傷するような雑誌が次々と出版され、「明星」の発行は一時不定期となった。

そのことが原因かどうかは定かではないが、成美は、明治34年に「明星」の発行元である新詩社から離れ、その後任として「明星」11号からは、藤島武二が表紙画を担当した。藤島はその後も「明星」誌面の視覚的装飾の担当者として関わり、その関係は藤島がパリに留学する明治38年まで続いた。

一方、「明星」を離れた成美は、ライバル社である新声社に同人として迎えられ、雑誌「新声」の明治34年1月号に「乳搾りの少女」を描いて大変は評判になった。この一枚の挿絵が雑誌の売行きを大幅に延ばしたという。また、多くの句集や歌集の挿絵や装丁も手がけ、博文館、冨山房、三省堂などから出版されていた雑誌の口絵なども描いた。

しかしその晩年は不遇だったらしく、新声社の創立者・佐藤義亮はその著書『出版おもいで話』のなかで成美について「名声が高まるとだらしのない遊びをはじめ、家に居っても朝から一日酒を呑み通して、容易に筆をとらない。遂にひどく窮してあっけなく死んでしまった」と回想している。

長く成美の肉筆作品は見つかっていなかったが、平成18年に松本市美術館で開催された「岳・楽・学都繁栄絵馬展」の調査の際に、松本市里山辺薄町の須々岐水神社に奉納されていた成美の絵馬が発見され、同展に展示されたことがきっかけとなり、肉筆作品が少しずつ発見されるようになった。

一條成美の挿絵

一條成美の挿絵

一條成美(1877-1910)いちじょう・なるみ(せいび)
明治10年東筑摩郡神林村(現在の松本市神林)生まれ。松本中学を1、2年で退学。松本中学では和田村(現在の松本市和田)出身の歌人・窪田空穂の1年年長だった。長野県土木課製図係に勤務、その後明治33年頃に上京、麹町にあった雑誌「明星」の創刊者である与謝野鉄幹の自宅に住み込み、「明星」の挿絵を手がけた。アールヌーボー調の裸婦は当時の大衆の絶大な人気を得た。著書に『新派彩画法』がある。明治43年、33歳で死去した。

長野(51)-画人伝・INDEX

文献:松本平の近代美術