江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

京都画壇で契月様式の人物画を確立した菊池契月

菊池契月「立女」長野県立美術館蔵

菊池契月(1879-1955)は、下高井郡中野町(現在の中野市)に生まれた。小学校の同級生に、後にともに画家を目指すことになる町田曲江と金井一章がいた。3人とも比較的裕福な家庭だったこともあり、契月の兄も含めて4人で渋温泉の児玉果亭に絵をみてもらうようになった。

4人の技術は師も驚くほどに上達し、特に契月は素質を認められ、「契月」の号を師の果亭からもらった。このことが少年の画家志望に火を着け、次第にその思いは強くなっていった。しかし、父は契月を画家にするつもりはなく、思い余った契月は、妹の結婚式のどさくさに紛れて、曲江とともに京都に出奔した。

京都に着いた二人は、今尾景年を訪ねるが門前払いにされ、落ち込む二人を見かねた宿の主人の紹介で南画家の内海吉堂に入門した。吉堂は、二人の天分と性格をみて、契月を同じ京都の菊池芳文に、曲江を東京の寺崎広業に紹介した。

菊池芳文に師事した契月は、入門した翌年から毎年、当時関西画壇の登竜門だった新古美術品展に出品し、受賞を重ねた。芳文門下では群を抜いて成績もよく、次第に師の後継者として望まれるようになり、27歳の時に芳文の娘と結婚し、菊池姓を名乗るようになった。

義父となった芳文のもと、四条派の伝統的画風を修得していった契月だったが、次第に四条派の枠におさまった画風を続けていくことに強い疑念を抱くようになる。その思いを初めて形にしたのが、明治43年の第4回文展に出品した「供燈」だとされ、その後も独自の画風を模索し、様々な表現を試みている。

大正11年、43歳の時に教授をしていた京都市立絵画専門学校の派遣で欧州視察に出た。この旅で、イタリアの初期ルネサンス絵画やエジプトの彫刻などに接し、絵画における立体表現とは何かを深く考えるようになった。そして、その解決の糸口を求めたのは、日本の古典絵画の研究だった。

帰国後は古社寺に足をはこび、また初期浮世絵、骨董の蒐集に力を入れた。一時期は東西両美術の融合を求めたが、その後は次第に新古典主義的傾向へと転換していき、契月様式とも呼べる高雅な美の世界を作り出していった。

菊池契月(1879-1955)きくち・けいげつ
明治12年下高井郡中野町(現在の中野市)生まれ。旧姓は細野。名は莞爾。明治25年児玉果亭に入門し「契月」の号を受ける。明治26年、町田春之助(町田曲江)と京都に出て菊池芳文に師事。明治31年新古美術品展で褒状1等。以後も同展や全国絵画共進会で受賞を重ねた。明治39年、師の芳文の娘と結婚し菊池姓となる。翌年の第1回文展に入選、その翌年の第2回文展で2等賞を受賞、以後も文展・帝展に出品、審査員もつとめた。明治43年、31歳の時に京都市立絵画専門学校の教諭となり、39歳で教授となった。大正11年渡欧。大正14年第1回菊池契月塾展を開催。翌年帝国美術院会員に推挙。昭和6年、京都市立絵画専門学校と同美術工芸学校の校長に就任したが、画業に専念するため翌年辞任。昭和9年帝室技芸員に就任。昭和19年、65歳の時に第1回個展を京都市美術館で開催。戦後は日展や白寿会に出品した。昭和30年、75歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(菊池契月)

長野(44)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第4巻、北信濃の美術 十六人集、信州の美術、郷土作家秀作展(信濃美術館)、近代の歴史画展-江崎孝坪と武者絵の系譜、長野県信濃美術館所蔵作品選 2002、松本市美術館所蔵品目録 2002、長野県美術大事典、美のふるさと 信州近代美術家たちの物語