江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

新村龍翠ら荒木寛畝に学んだ信州の日本画家

新村龍翠「芦雁図」六曲一隻(部分)

新村龍翠(1866-1939)は、上伊那郡平出村(現在の辰野町)に生まれた。幼いころから絵筆を握り、26歳で上京し荒木寛畝に師事した。寛畝のもとでは、南北合派を学び、花鳥に徹し、次第に頭角をあらわした。

入門3年目で日本美術協会で褒状を受け、その後も日本美術協会、日本画会に出品、日本画会、帝国絵画協会の会員となった。同じ寛畝門下の池上秀畝が東京に留まり官展に出品し続けたのに対し、龍翠はやがて帰郷し、郷里での評価を高めた。

また、長崎と関係ができ、多くの作品を送り、龍翠自身もよく九州に出かけた。晩年には、丸山雲田、青木石農、高山完らとともに初めての県的組織である信濃美術会の設立の発起人となった。

子・友畝は、寛畝の養子・荒木十畝に師事し、文展、帝展などに出品。戦後は帰郷して制作活動を続け、辰野美術会の会長をつとめた。他に信州の荒木寛畝の門人としては、埴科郡松代町の倉石松畝、辰野町の増沢俊畝、長谷村の宮下幽畝、上諏訪町の丸山永畝らがいる。

新村龍翠(1866-1939)にいむら・りゅうすい
慶応2年上伊那郡平出村(現在の辰野町平出)生まれ。赤羽佐平の長男。名は吉太郎。近所の新村家の養子となって新村友清とも称した。別号に松庵道人がある。明治25年に上京して荒木寛畝に入門。明治28年日本美術協会展に初入選で3等褒状を受けた。明治32年日本美術協会展で2等褒状。同年日本画会月例研究会に加入。明治36年日本画会で3等褒状を受け、会員推挙となった。同年第5回内国勧業博覧会で1等褒状。明治40年日本画会で受賞。大正4年全国絵画展で2等褒状。大正14年東洋絵画展1等金牌。昭和3年御大典記念展で1等金牌。同年信濃美術協会の創立に参加。昭和14年、74歳で死去した。

倉石松畝(1874-1945)くらいし・しょうほ
明治7年埴科郡松代町(長野市松代)生まれ。名は袈裟治。20歳頃に上京して荒木寛畝に師事した。明治33年日本美術協会展で1等褒状。明治34年日本絵画協会日本美術院共進会で1等褒状。明治35年日本画会展と日本美術協会展で宮内省買上。その後も日本画会と日本美術協会に出品して受賞を重ね、東京府勧業博覧会や北陸絵画協会などでも実績を残した。大正5年第10回文展と翌年の第11回文展に連続入選。昭和20年、71歳で死去した。

増沢俊畝(1875-1969)ますざわ・しゅんぽ
明治8年辰野町生まれ。名は高市。明治30年に上京し荒木寛畝に師事した。明治32年日本美術協会展で褒状、その後も同展に出品。明治33年全国絵画共進会に出品。明治37年に帰郷し大正2年まで小学校に勤務。その後、台湾、中国、朝鮮に写生旅行をした。昭和44年、95歳で死去した。

宮下幽畝(1878-1949)みやした・ゆうほ
明治11年長谷村生まれ。名は徳一郎。荒木寛畝、池上秀畝、荒木十畝に師事した。高遠町、伊那市、上下伊那郡などの画会で作品を頒布した。淡交会員。美人画、歴史画を得意とした。書道、骨董にも精通していた。昭和24年、72歳で死去した。

丸山永畝(1886-1962)まるやま・えいほ
明治19年上諏訪町生まれ。名は忠次郎。明治39年、20歳の時に上京して荒木寛畝に師事した。師の画塾・読画会に属し、日本画会展、日本美術協会展に出品。塾門の荒木十畝らと毎年のように写生旅行をした。文展・帝展にも出品したが、ある時期から官展に出品せず画壇から距離を置くようになった。昭和61年、90歳で死去した。

新村友畝(1895-1971)にいむら・ゆうほ
明治28年辰野町生まれ。新村龍翠の子。大正4年上京して荒木十畝に師事した。読画会の塾頭、幹事、評議員をつとめた。文展、帝展、日本画会、明治画会、平和博展などに出品。戦後は帰郷して制作活動を続け、辰野美術会の会長をつとめた。昭和46年、77歳で死去した。

長野(42)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第3巻、上伊那の美術 十人集、郷土美術全集(上伊那)、長野県美術大事典