江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

女性石版画家のパイオニア・岡村政子

岡村政子「婦人像」石版画 川崎市市民ミュージアム蔵

岡村政子(1858-1936)は、岩村田藩の江戸藩邸に生まれ、幼いころに岩村田(現在の佐久市)に移り住んだ。16歳で上京するが、この時のちに夫となる同郷の岡村竹四郎といっしょだったと思われる。上京後は、駿河台のニコライ神学校に入学し、ニコライ大主教から石版技術を学び、またイコン(聖像画)なども描いた。一方、竹四郎は石版屋につとめ、のちに慶応義塾に入学し、福沢諭吉の家で書生としても働いた。

明治9年、日本で最初の官立美術学校である工部美術学校が開設されると、政子の画才を高く評価していたニコライ大主教の推薦により、浅井忠、小山正太郎、山下りん松岡寿らとともに1期生として画学科に入学、フォンタネージから洋画の基礎を学んだ。

しかし、明治11年のフォンタネージの帰国後、後任の教師フェレッティに不満を持った学生たちが相次いで退学し、政子も行動をともにした。工部美術学校を退学した政子は、やはり慶応義塾を辞した岡村竹四郎と、この年結婚する。

結婚した二人は、福沢諭吉の援助を受けながら石版印刷会社・信陽堂を設立、政子は作画製版を行なった。明治24年には、明治天皇、皇后の肖像を印刷献納して頒布の許可を得て販売、成功をおさめた。また、福沢が創刊した「時事新報」の印刷の仕事を受け、付録として多色刷の石版画を印刷して好評を博した。

掲載の「婦人像」もそのひとつで、「時事新報」第5000号の付録として明治30年9月1日に発行された石版画である。和服姿の女性が手に持っている新聞の題字は「時事・・」と読める。

その後、信陽堂は、帝国印刷株式会社、猶興社、活文社などと合併して東洋印刷株式会社となり、政子は製版部長として働いていたが、大正12年の関東大震災のため社屋を失い廃業、政子も印刷業から引退した。「時事新報」も震災とともに衰えはじめ、くしくも政子が没した昭和11年に廃刊となった。

岡村政子(1858-1936)おかむら・まさこ
安政5年江戸生まれ。旧姓は山室。幼少の頃に信州岩村田上之城(現在の佐久市)に移り住んだ。明治7年、上京して神田駿河台のニコライ神学校に学んだ。明治8年、受洗するとともに大主教ニコライから石版印刷技術の指導を受けた。明治9年、新設された工部美術学校に最初の女学生のひとりとして入学、西洋画法を学んだが、その後退学。明治13年に同郷の岡村竹四郎と結婚し、京橋区宗十郎町で石版印刷会社・信陽堂をはじめた。イコンの版画、新約聖書の日本語訳、福沢諭吉が創設した「時事新報」の印刷などを手がけた。また、小学校図書教科書の発刊にも携わった。昭和11年、78歳で死去した。

長野(33)-画人伝・INDEX

文献:岡村政子と佐久をめぐる女性画家たち、川上冬崖とその周辺-幕末から明治へ、長野県美術全集 第2巻、続 信州の美術、信州近代版画の歩み展、長野県信濃美術館所蔵品目録 1990、長野県美術大事典、美のふるさと 信州近代美術家たちの物語