江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

近代日本洋画の開拓者・川上冬崖

川上冬崖「草花図」長野県立美術館蔵

川上冬崖(1828-1881)は、松代藩領福島新田村(現在の長野市屋島)の農家に生まれた。11歳頃に自ら望んで母の生家である須坂の黒坂神社大宮司の家に移り住み、須坂藩塾(立成館)に通い漢学を学んだ。その後、15歳で松代の神官の養子となった。この頃、上田藩士・木村培樵に絵を習ったと思われる。

17歳で家出して江戸に出て、はじめ上野東叡山寛永寺に2年間奉公し、ついで寛永寺の子院・東叡山東叡院に小従として6年間つとめた。この間、四条派の大西椿年に師事し、画才を認められて「太年」の号を与えられた。一方で、時勢を洞察して蘭学も学びはじめた。

嘉永4年、24歳の時に幕府御家人株を買い、川上仙之助の養子となり川上姓になった。安政3年、幕府の洋学研究機関として開設された蕃書調所(洋学所から改称)に、蘭学をかわれて出仕した。その翌年には学力と画才を認められて同所の絵図調出役となり、西洋画法の研究と教育に着手した。

西洋画法の研究をはじめたが、画家として洋画を描きだしたわけではなく、当時の冬崖の作品のほとんどが南画で、研究の余暇として描いたと思われる。はじめて描いた洋画作品としては、安政4年に横山保三の翻訳書『魯敏遜漂行紀略』に寄せた木版着色の挿画があげられる。本図は、銅版原画を毛筆で模写し着色木版画としたもので、これが洋風挿絵の嚆矢となった。

文久元年、34歳の時に蕃書調所のなかに新たに設置された画学局に出役となり、翌年には高橋由一が同局に入所した。蕃書調所は洋書調所に、さらに文久3年には開成所と改称されたが、ここで冬崖は、由一をはじめ明治初期に活躍する洋画の画学生たちを指導した。

慶応元年、将軍家茂の長州征伐に製図技術者として随行し、写真撮影にも従事した。翌年家茂が没し、慶喜が第15代将軍となり京都に留まったため、冬崖も同地に滞留、慶応4年の鳥羽、伏見の戦で幕府軍が敗北したため江戸に戻った。

維新後は、沼津に創設された兵学校の絵図方として参画、これが解散すると東京に戻って明治政府によって再興された開成所の筆生となった。翌年、下谷の自宅に画塾「聴香読画館」を開設し西洋画法を指導、ここから小山正太郎、松岡寿中丸精十郎、松井昇、川村清雄、印藤真楯ら、近代日本洋画の黎明期を担う画家たちが育っていった。

明治3年、43歳の時に大学南校(開成所から改称)の図画御用掛となり、同校在職中に西洋地理書『輿地誌略』の全12巻のうち6巻までの木版挿絵を描いた。明治4年、文部省が創設され、文部省編輯寮に出仕、同年英書翻訳による洋画技法書『西画指南』(前編)を刊行した。これは近代西洋画指導書の先駆となった。

明治5年、陸軍省が創設され、冬崖は文部省から陸軍省兵学寮に移り、石版印刷研究に携わり、翌年銅版手彩色「地図彩色」を刊行した。明治7年には兵学寮が廃止されたため、新設の陸軍士官学校図画教授掛となり、生徒の習画用に石版印刷で『写景法範』を出版した。本書には蘭書から独自に開拓した石版画を初めて図版として使っており、これが明治石版画の嚆矢となった。

明治9年、49歳の時に陸軍省参謀局第5課に転任、天皇東北・北海道巡幸に小山正太郎を伴って随行し、沿道の風物、民情などを写生した。翌年第1回内国勧業博覧会が開催され、美術部の審査主任をつとめた。

明治11年からは参謀本部地図課に所属し、西洋式地図を作成していたが、明治14年、横須賀軍港地図が紛失するという事件が起こり、冬崖は機密漏洩の嫌疑をかけられる。同年3月、第2回内国勧業博覧会の美術部審査主任をつとめたが、その2カ月後、宿泊先の熱海で謎の死を遂げた。自殺とも伝わっているが、その真相は不明である。のちに冬崖にかけられていた嫌疑は晴れることになる。

川上冬崖(1828-1881)かわかみ・とうがい
文政10年松代領福島新田村(現在の長野市)生まれ。山岸瀬左衛門の二男。幼名は斧松、長じて萬之丞、寛。弘化2年江戸に出て寛永寺東叡院の小従になった。そこで大西椿年に絵を学び、蘭学も学びはじめた。嘉永4年幕府御家人株を買い、川上姓になった。安政3年蘭学をかわれて蕃書調所に出仕。翌年絵図調出役となるが、同所に画学局が設置されて画学出仕となった。文久3年蕃書調所が洋書調所に改称、画学局頭取となり、部下に高橋由一がいた。明治2年に下谷に洋画指導の私塾「聴香読画館」を開き、小山正太郎、中丸精十郎ら多くの初期洋画家を育てた。明治5年文部省から陸軍省に移り、石版印刷を研究。明治10年第1回内国勧業博覧会の美術部審査主任をつとめた。翌年参謀本部設置とともに地図課に勤務、洋風地図制作に携わった。明治14年第2回内国勧業博覧会の美術部審査主任をつとめた。西洋画法を研究し、数々の業績を残したが、南画家としての名声も高く、中国明・清代の画法による花卉を得意とした。明治14年、熱海において54歳で客死した。

木村培樵(1817-1875)きむら・ばいしょう
文化14年信州生まれ。上田藩士。川上冬崖の最初の師とされる。日本画家・木村其樵の父。名は安五郎、別名は睦一郎。佐久間象山に漢詩、医学を学んだとされる。谷文晁の門人。天保13年頃、少年時代の川上冬崖に絵を教えたと伝わっており、冬崖が江戸に出てからもその交友は続き、絵具類や粉本を江戸から上田にしばしば送ってもらっていたと思われる。安政元年に培樵の養子となり、明治日本画壇で活躍した木村其樵は、冬崖から送られた粉本をもとに研究を積んだとされる。明治8年、58歳で死去した。

長野(31)-画人伝・INDEX

文献:川上冬崖とその周辺-幕末から明治へ、長野県美術全集 第2巻、北信濃の美術 十六人集、信州の美術、信州の南画・文人画、郷土作家秀作展(信濃美術館)、信州近代版画の歩み展、長野県信濃美術館所蔵品目録 1990、松本市美術館所蔵品目録 2002、長野県信濃美術館所蔵作品選 2002 、美のふるさと 信州近代美術家たちの物語、長野県美術大事典