原蓬山(1823-1876)は、下伊那郡清内路村(現在の阿智村)に生まれた。12、3歳で島田村の八幡宮別当神宮寺の松溪住職に預けられ、読み書きを習った。寺の近くに佐竹蓬平の門人だった大平蘆平と平栗墨翁がいたことから、その二人を通じて蓬平の存在を知り、画を描きだしたといわれている。
青年期は、父母に従って煙草作りや養蚕、山仕事などをしていたが、安政元年に京都の谷口靄山が清内路村を通ったときに絵を見てもらい、その際に素質を認められ、33歳の時に靄山を頼って京都に出た。京都では、靄山に学びつつ介子園を写し、文鳳画譜を求めて幅広く学び、書は靄山を介して貫名海屋に習い、梁川星巌、広瀬旭荘らと交流した。
京都での3年の遊学を終えて郷里に戻った蓬山は、山村での生活が耐えられなくなり、徐々に村内で孤立するようになっていった。やがて村外に活動の場を求めるようになり、飯田付近の知人、文人の家を歴遊し、画を描いては酒を求めていたという。そのような漂白の生活を20年余り続け、55歳の時に中風発作により倒れ、翌年没した。
原蓬山(1823-1876)はら・ほうざん
文政6年下伊那郡清内路村上清内路生まれ。通称は清五郎。別号に譲平、看山楼、蓬山樵夫、煙谷樵者、煙谷蓬僊、蓬仙、蓬山人源清、釣堂余韻、看竹楼主人、竹窓隠士、蓬僊守拙閑人、白芝園主人、竹田隠士、竹山閑人、蓬堂、恵雨閑人、白雪閑樵、竹窓老人などがある。安政3年谷口靄山を頼り京都に出て、画を靄山に、書は貫名海屋に学んだ。明治11年、56歳で没した。
長野(22)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第1巻、郷土美術全集(飯田・下伊那)、飯田の美術 十人集、信州の南画・文人画、 長野県美術大事典