江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

古曳盤谷門下の三筆、藤森桂谷・窪田松門・丸山素屋

藤森桂谷「南瓜之図」

古曳盤谷は松本の飯田町に寄寓し、医業のかたわら南画や漢詩文の家塾を開き、多くの門人を育てた。主な門人としては、啓蒙運動家として活動し、国民教育の先覚者でもあった藤森桂谷、自由民権家で「信飛新聞」の創刊に加わった窪田松門(窪田畔夫)がおり、それに小坂芝田らを育てた丸山素屋を加えて盤谷門下の三筆といわれた。

藤森桂谷(1835-1905)は、安曇郡成相新田村(現在の豊科町)に生まれ、幼いころから和歌や書を学び、20歳頃に古曳盤谷に師事した。その後京都に上り、詩画、和歌などの学問を深めながら、勤皇の志士とも親交を結んで帰郷した。明治維新後は、郷土の教育に尽力、小学校校長などをつとめたが、明治18年に教育界を去って画業に専念、菱田春草や横山大観らと交流して、近代日本画への道を進んだ。

窪田松門(1838-1921)は窪田畯叟の子として、東筑摩郡和田町村(現在の松本市和田)に生まれた。父の畯叟は、勤皇の志が厚く、勤皇画人の浮田一蕙が松本に滞在していた際には師事して教えを受けた。松門も勤皇の思想を持ち、「信飛新聞」の創刊に加わるなど、自由民権運動の先鞭的役割を果たし、衆議院議員もつとめた。晩年は政界を退き、神官をしながら作画し、信濃美術会の発足にあたっては総裁に就任した。

南安曇郡梓川村(現在の松本市梓川)の農家に生まれた丸山素屋(1844-1911)は、農作の生活に飽き足らず、学問で身を立てるべく17歳で江戸に出たが叶わず、生活が困窮して帰郷した。しかし、学問への思いは捨てがたく、30歳の時に古曳盤谷に師事した。門人には、伊那の小坂芝田をはじめ、伊藤穂山、丹所天朗、高木犀厓らがいる。

藤森桂谷(1835-1905)ふじもり・けいこく
天保6年南安曇郡成相新田村(現在の安曇野市)生まれ。名は厚、字は寿平。別号に烏川、蝶山、麦里、麦陵、桑渓、三泉居子などがある。中萱村の相馬永保に読み書きを習い、古曳盤谷に画を学んだ。安政5年には京都に上り、経義詩文を山中静逸に、画を村山半牧に、和歌を香川景恒に学び、幕末の志士と交流して翌年帰郷した。明治3年松本藩知事に学校の開設を建言。翌年私費を投じて法蔵寺内に青年教育塾「実践社」を設立した。その後、穂高、成新、豊科の学校長を歴新した。明治12年奨匡社の自由民権国会開設運動に評議員として参加。明治13年県会議員に推されたが、議員報酬の引き上げに反対して辞職した。明治16年北安曇郡広津村北山小学校校長に就任。明治17年内国絵画共進会に出品して受賞し、翌年教育界を去って画業に専念した。明治19年東洋絵画共進会で第3等山階宮賞を受賞。明治26年故郷に草庵「羅漢堂」を造り、制作のかたわら文人と交遊。明治27年大日本美術協会評議員、明治33年日本美術院会員になった。明治37年故郷の家財を整理して上京。日本美術院の院舎近くの長安寺に寄宿して制作をしていたが、明治38年、70歳で死去した。

窪田松門(1838-1921)くぼた・しょうもん
天保9年東筑摩郡和田町村(現在の松本市和田)生まれ。窪田畯叟の子。別名は窪田畔夫(くぼた・くろお)。幼名は三太郎、名は重国。学問を父に習い、村で寺小屋を経営、幕末動乱期には江戸、横浜、京都をまわり見聞をひろめた。画は古曳盤谷に学んだ。明治5年伊那県下問会議の設置や租税改革を建言し、「信飛新聞」の創刊に加わるなど、自由民権運動の先鞭的役割を果たした。明治12年北安曇郡の初代郡長となり、明治21年から県会議員をつとめ、明治25年衆議院議員に当選した。明治31年には政界を退き、翌年から大正2年まで神官をしながら作画、同年信濃美術会の発足にあたり総裁に就任した。大正8年には実子の二木洵によって浅間温泉に松門文庫が建設された。大正10年、84歳で死去した。

丸山素屋(1844-1911)まるやま・そおく
弘化元年南安曇郡梓川村(現在の松本市梓川)生まれ。別号に山外、自笑、無心草盧がある。古曳盤谷に師事した。明治19年東洋絵画共進会で褒状を受けた。明治23年の浪速画会、明治32年の全国絵画共進会、明治33年の大阪における南宗画会、明治34年の大阪南宗画会でともに二等賞を受賞した。明治44年、68歳で死去した。

長野(17)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第2巻、安曇野の美術、松本平の近代美術、信州の南画・文人画、長野県美術大事典