江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

松本における近代日本画の基礎を築いた仙石翠淵

仙石翠淵「養蚕の図」

仙石翠淵(1801-1885)は、筑摩郡埴原村(現在の松本市中山)に生まれた。生家は、胡桃澤膏薬本舗として近郷に知られていた。幼いころから書画を好み、独学で画を学んだが、49歳の時に旅の絵師・碧鳳に本格的は描法を学んだ。人物の描写に力を入れ、農村の日常の生活のなかに多くの画題を見出した。

多芸多能で、絵画のほかに美術工芸にも優れ、天保8年に諏訪高島藩主に自作の硯箱を献上して褒賞を受けた。また、来客にお茶を出す「茶くみ人形」を鯨のヒゲをゼンマイにして制作するなど、人を驚かすことも度々だったいう。進取の気性に富み、天保年間に江戸から職人を呼び、櫓時計や尺時計を製作させている。

生涯を通じて松本を出ることはなく、ほとんど独学で絵を学びながら、西洋風の透視図法を取り入れるなど、松本における近代日本画の基礎を築いた画家とされている。

仙石翠淵(1801-1885)せんごく・すいえん
享和元年筑摩郡埴原村生まれ。通称は牛鹿、字は政慶。晴雲楼翠淵と号した。独学で画を学び、美術工芸にも優れていた。天保8年自作の硯箱を諏訪高島藩主に献上。天保11年埴原村村の秋葉神社拝殿の天井画を描いた。嘉永2年、49歳の時に旅の絵師・伊勢の碧鳳から本格的な絵の手ほどきを受けた。安政4年内田村牛伏寺の欄間に墨絵で「雲龍」「松鶴」「山水」を描いた。また後日、同寺に「布袋唐子図」を贈った。慶応3年「槇原村図書館」を藩主に献上、帯刀を許可された。維新後も「青緑楼閣山水図」「開智学校図」「聖駕お小休図」「農業の図」「養蚕の図」などを描いた。明治18年、85歳で死去した。

長野(14)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第1巻、松本の美術 十三人集、松本平の近代美術、長野県美術大事典