江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

近世の信州を代表する画人・佐竹蓬平と鈴木芙蓉

左:佐竹蓬平「伯牙弾琴図」 右:「伯牙絶弦図」

佐竹蓬平(1750-1807)と鈴木芙蓉(1749or1752-1816)は、ともに飯田の近郊・伊賀良の里に生まれ、年齢も近く(芙蓉の生年には2説ある)、ともに白隠慧鶴の高弟・寒山禅師が開いた寺小屋で漢籍の句読や書を学んだとされる。しかし、親しい交友関係があったとは伝えられていない。やがて二人は、画家を目指してともに江戸に出るが、その後の画人としての生涯は、対照的なものとなっていく。

江戸に出た鈴木芙蓉は、当時流行していた南蘋派の渡辺湊水に師事、そのまま江戸に留まり、活況を呈しはじめていた江戸画壇のなかで頭角を現わし、画譜類も刊行、やがて阿波藩主・蜂須賀家のお抱え絵師となり、早くから江戸の文人たちの間では知られる存在となった。

それに対して佐竹蓬平は、いったんは江戸に出て南蘋派の宋紫石の門に入るが、画風が合わず、帰郷したのち京都に出て池大雅を慕って南画を学んだ。大雅没後は西遊して長崎、熊本、博多をまわるなど、壮年期のほとんでを異郷の放浪に費やし、帰郷後は作画を楽しみながら文人墨客と交友した。中年以降は病気の母親のもとを遠く離れずにいたが、母の没後は再び西遊を試み、妻を伴って旅に出たが、途中の熊野で病を得て郷里に引き返したが死去した。

両者が芸術に求めた境地もまったく相反するもので、芙蓉は、仕官を求めて多くの野心家が競いあう江戸画壇にあって、さまざまな流派の筆法を取り入れ、折衷画様式ともいえる新興画派の形成に大きな役割を果たし、士官の道を得たが、蓬平は、仕官の意思もなく、かつて肥後藩の高本紫溟に仕官の意の有無を問われたときに、仕官すれば描きたいものも描けなくなると、即座にこれを断ったという。

蓬平は作画のレパートリーも狭く、山水は身辺の自然で、人物は自画像、それに対するのは老妻といわれている。掲載の「伯牙絶弦図」「伯牙弾琴図」の2作は、蓬平最晩年の作品で、「伯牙絶弦図」は、最後の西遊に出たときに名古屋の地で友人に描き贈った作品とされる。その後、蓬平と妻は名古屋を発ち西に向かうが、熊野で病を得てその生涯を閉じることになる。

佐竹蓬平(1750-1807)さたけ・ほうへい
寛延3年伊賀良村大瀬木(現在の飯田市大瀬木)生まれ。名は正夷、通称は佐蔵。代々大瀬木村の庄屋をつとめていた豪農・野口家の四男として生まれたが、父の代に故あって庄屋を免ぜられ、その後、姓を佐竹に改めた。21歳の時に滝江村の城家の養子となったが、翌年離縁して実家に戻り、のちに江戸に出て宋紫石や月僊らと交友して画を学んだ。のちに京都に上り、池大雅に師事したが、大雅没後は師につかず遊歴した。文化4年、58歳で死去した。

鈴木芙蓉(1752or1749-1816)すずき・ふよう
最古の阿波おどり図を描いた御用絵師・鈴木芙蓉

長野(10)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第1巻、飯田の美術 十人集、信州の南画・文人画、信州美術家群像、信州の美術、郷土作家秀作展(信濃美術館)、長野県信濃美術館所蔵品目録 1990、松本市美術館所蔵品目録 2002、長野県美術大事典