江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

松代藩の閨秀画家・恩田緑蔭

恩田緑蔭「写生集壱」

恩田緑蔭(1819-1874)は、松代藩で活動した女性画家で、松代藩士・四代恩田織部(恩田民正)の長女として生まれた。恩田織部の家は、代々二百石を継承する比較的裕福な家で、初代の恩田民格は、18世紀に松代藩の財政改革に尽力した経世家・恩田木工民親の実弟にあたる。

緑蔭の生涯を知る史料は少ないが、すでに20代には藩絵師の山田島寅や青木雪卿に絵を学んでいたと思われる。画材の使い方、絵画の基本的な用語などを勉強したあとがうかがえる文書が残っている。生涯、信州から離れなかったと考えられ、残っている作品は、花鳥など伝統的な画題のほか、松代の風景、藩にゆかりのある人々を描いた肖像がある。

松代藩には、緑蔭が学んだ山田島寅や青木雪卿のほか、主に地図制作の仕事をしていた関愛山(1828-1894)、樋畑翁輔に学び歌川広重の門にも入ったされる酒井雪谷(1833-1876)らが絵師として活動していた。

恩田緑蔭(1819-1874)おくだ・りょくいん
文政2年松代生まれ。本名はゆり。桜雲亭緑蔭、桂月由里などとも称した。松代藩絵師の山田島寅や青木雪卿に師事、葛飾北斎や与謝蕪村にも私淑して作品を模写している。花鳥図や松代の風景、藩にゆかりのある人々の肖像を描いた。平成17年、長野市の水野美術館で「恩田緑蔭展~知られざる信州の元祖女流画家~」が開催された。明治7年、55歳で死去した。

山田島寅(1800-1861)やまだ・とうえん
寛政12年埴科郡西条村生まれ。通称は慎介。はじめ北斎系の絵師に学んだとされるが明確ではなく、天保14年に松代藩の御次絵師に任じられたあと、京都に出て四条派の岡本豊彦に学び、江戸、大津などでも絵の修行を積み、万延元年には御絵師になったという。万延2年、61歳で死去した。

青木雪卿(1804-1903)あおき・せっきょう
文化元年埴科郡岩野村生まれ。通称は八重八、諱は重明。初号は雪渓。絵は川中島村の更級雄斎に学んだとされるが明確ではない。町絵師として活動し、八代藩主・真田幸貫に見出されて松代藩御用絵師となった。明治36年、98歳で死去した。

関愛山(1828-1894)せき・あいざん
文政11年埴科郡寺尾村生まれ。名は吉之助。土佐派の絵師に学んだあと、松代藩の御次絵師に命じられたとされる。主は仕事は地図制作だったが、観賞用の絵も残している。明治時代には絵画共進会にも出品した。明治27年、66歳で死去した。

酒井雪谷(1833-1876)さかい・せっこく
天保4年生まれ。名は妙成、幼名は金太郎。別号に竹蔭甘泉がある。嘉永末年に江戸に赴き藩の下屋敷深川小川町に居住していたが、その頃、松代藩士の樋畑翁輔に絵を習い、その後は歌川広重の門にも入ったという。しばらくして松代に戻り、藩務についてからも絵を嗜み、九代藩主・真田幸教にも絵を教えていたという。明治9年、42歳で死去した。

長野(9)-画人伝・INDEX

文献:美のふるさと 信州近代美術家たちの物語、神秘なる乙女の画家の物語 : 信州松代藩-恩田緑蔭アンソロジー、松代藩の絵師-三村晴山