江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

信州小県郡で「田舎探幽」と呼ばれた秦燕恪

秦燕恪「異国人狩猟図」

秦燕恪(1732-1799)は、小県郡和田村(現在の小県郡長和町)に生まれ、はじめは狩野玉燕の作風を慕って私淑したが、のちに江戸に出て木挽町狩野家六代目の狩野栄川院典信の門に入った。その後帰郷して地元の同好者らに絵を教えた。

周囲の人々は、その画技のすばらしさに感心し、江戸の人気画家・狩野探幽をもじって「田舎探幽」と呼んで慕ったという。静岡県西部の天龍川中流の岸頭にある秋葉山の堂宇が再建された時、模写図を描き、その巧みさに集まった画人たちを驚かせたという逸話も伝わっている。

燕恪に学んだ信州の画人としては、児玉胤常、中沢燕州、羽田燕二、堀燕眠、そして、胤常の子・武重桃堂らがいる。

武重桃堂(1773-1853)は、小県郡大門村の児玉胤常の二男として生まれ、30歳の時に長久保宿の名主・武重信賢の養子となり武重氏を継いだ。幼いころから画を好み、はじめ秦燕恪に師事し、24歳の時に江戸に出て、父の習った狩野休円に師事した。書や短歌もよくし、地方文化人として名が知られた。

桃堂の門人としては、児玉桃岡、清住悁斎、手島桃渓、木内芳軒、大澤嵐山らがいる。

秦燕恪(1732-1799)はた・えんかく
享保17年小県郡和田村生まれ。秦五郎左衛門の長男。通称は応助。狩野派の画風を慕い独学したとされ、また、狩野玉燕の作風を慕って私淑したとも伝わっている。のちに江戸に出て木挽町狩野家六代目の狩野栄川院典信に師事した。その後帰郷して地元で活動した。馬術も得意とした。寛政11年、67歳で死去した。

武重桃堂(1773-1853)たけしげ・とうどう
安永2年小県郡大門村生まれ。児玉胤堂の二男。名は常毅。長久保新町の武重信資の養子となって正毅と称した。幼名は和吉、のちに左内といい、号は休眠、桃斎、桃堂と変えた。はじめ同郷の秦燕恪に学び、のちに江戸に出て狩野休円に学んだ。書や短歌もよくした。短歌ははじめ清水浜臣、のちに本居大平につき、松岡内平、宮坂常由、小林松蔭、小林学朝らと交友した。嘉永6年、80歳で死去した。

長野(5)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第1巻、長野県美術大事典