江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

宮崎の美術教育に尽力したボヘミアン・有田四郎

有田四郎「霊峰霧島」宮崎県立美術館蔵

宮崎の美術教育に大きく貢献した人物に有田四郎(1885-1946)がいる。有田は東京に生まれ、幼時を熊本県で過ごした。東京美術学校では黒田清輝に師事し、和田英作とも親しく交流した。熱心なキリスト教信者で在学中に洗礼を受けている。歌人、著述家としての顔も持ち、芥川龍之介や有島武郎ら多くの文化人たちと交流した。

また、ボヘミアンと称されるほどに旅を好み、田園生活にあこがれて転居も繰り返した。宮崎には大正14年に訪れ、農耕にたずさわる一方、旧制県立延岡中学校、高鍋中学校、宮崎師範学校で美術教師として教鞭をとった。独特のヒゲを蓄えていたことから延岡中学の学生からは「延中の沙翁(シェークスピア)」と呼ばれ慕われた。

そのヒゲ面に蝶ネクタイをキリリと締めた有田の姿に、教え子たちは「さすがは美術教師、時代の先端を行くスタイリストだ」と惹き付けられ、東京の美術学校を目指すものが急増した。旧制県立延岡中学校での教え子からは、東京美術学校西洋画科に岡田和夫と高見清一、彫刻科に渡辺小五郎、漆工科に今村亨が進学した。また、平原美夫、河野扶らが有田の薫陶を受けて美術の道に進んだ。

有田四郎(1885-1946)
明治18年東京生まれ。雅号に残暮庵、ペンネームに田沢藤郎がある。明治36年東京美術学校洋画科に入学、黒田清輝に師事、和田英作と交流した。在学中の明治40年第1回文展入選、その後も文展出品。黒田らが創設した白馬会展にも2度参加した。熱心なキリスト教信者として本郷教会に所属し、在学中に洗礼を受けている。明治44年秋から翌春にかけて、南方への旅に出た。大正4年から鎌倉に転居、芥川龍之介や有島武郎ら文化人たちと交流した。大正12年関東大震災後は愛媛県に転居、大正14年に宮崎県富高町伊勢ケ浜に転居した。昭和2年に旧制県立延岡中学校、昭和10年に宮崎県師範学校の美術教師となり、宮崎の美術教育に尽力した。昭和17年に東京に引き揚げ、エッチングを手がけた。昭和19年瀬戸内海に憧れ香川県に転居。宮崎在住時からのスケッチをもとに水墨や淡彩の制作に励んだ。晩年は仏画も描いた。昭和21年、61歳で死去した。

岡田和夫(1910-1937)
明治43年延岡市生まれ。旧制延岡中学校で有田四郎に学び、東京美術学校に進学、在学中に帝展に初入選し、卒業制作は奨励賞を受けた。将来を嘱望されたが、昭和12年、27歳で死去した。

高見清一(1912-1964)
明治45年延岡市生まれ。旧制延岡中学校で有田四郎に学び、東京美術学校に進学した。卒業後は東京の満州映画協会に入社し映画制作に道を歩んだ。新京国展に佳作入選。戦後は開拓者として都農に入植し制作した。昭和39年、52歳で死去した。

平原美夫(1911-1975)
明治44年東臼杵郡東郷町生まれ。昭和5年宮崎県師範学校を卒業後、教職についたが、有田四郎の勧めで上京、新写実派研究所で学んだ。東京の王子中学校で教師をしながら制作に励み、昭和11年文展に入選、昭和13年に一水会展に入選した。昭和14年旧制県立延岡中学校に転任のため宮崎に帰り、その後美術教師として後進の指導にあたった。高鍋高校時代は野球部の指導に力を注ぎ、昭和29年に甲子園出場に導いた。昭和46年の退職後は再び絵筆をとり制作に専念した。昭和49年、64歳で死去した。

河野扶(1913-2002)
大正2年日向市生まれ。昭和5年旧制県立高鍋中学校を卒業。同時に有田四郎に入門し、デッサン、油絵を学んだ。同年東京美術学校の受験に失敗し、翌年川端画学校に学んだ。昭和10年京都の旧制第三高等学校理科甲類に入学。在学中、独立美術協会京都研究所で須田国太郎に人体デッサンを学んだ。昭和16年東京大学理学部数学科を卒業し会社勤めをするが、戦後は大学で数学を教えた。その間制作も続け、昭和35年独立展に出品、会友となったが、その後退会、無所属として活動した。昭和45年教職を辞め、毎年個展を行なった。平成14年、89歳で死去した。

宮崎(26)-画人伝・INDEX

文献:明星大学研究紀要第24号「有田四郎-ボヘミアンと呼ばれた芸術家」、宮崎の洋画100年展、宮崎近代美術創成期の美術家、東京美術学校に学んだ郷土の画家